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スタッフblog「季の風」

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言葉を獲得していくということ

2018-07-03
 産育休を経て、職場に復帰し早いもので2か月が経ちました。一歳七か月になった娘を家の近くの保育園に送り届け、出社するという生活にもだんだん慣れてきました。娘を自転車の後ろに乗せ、チャイルドシートの手すりに貼ったシールを指して、「ぎゅーだよ」と声を掛けると、「ぎゅー!」とにぎって返事をしてくれるのが朝、出発前の定番になっています。
 
 娘は今、ぐんぐん言葉を獲得しているところで、結構やりとりができるようになりました。彼女が何か伝えようとしているのを見るのはとてもおもしろいです。のどが渇いたときは「のむ!」と言ってコップを指さし、犬のことは「わんわ」、鳥は「ピッピ」、タンポポは「ポポ」、バナナは「ナナ」で、ねこは「こ」、バスだけは正しく「バス」と言えています。それを見つけると嬉しそうに「わんわ!あー!わんわ!」と言って指さして教えてくれます。それがたとえ「犬のフンは持ち帰りましょう」と書かれている看板に描かれた小さな犬のイラストでも。
 
 そんな娘が覚えた言葉のひとつに「きれい」があります。ちょうど桜が満開の頃、家の近所を散歩しながら「桜が満開だね。きれいだね。」とよく話しかけていたあたりから覚えたと思います。おもしろいなと思ったのが、最初は桜を見たときにしか「きれい」と言わなかったのに、最近はいろいろなものに対して「きれい」を使うことができるようになっていました。別の花が咲いているときも「きれい」と言うし、私がアクセサリーをつけているのを見つけても、キラキラした髪留めを見つけても、たくさんのしゃぼんだまを指さしても、敷布団の花柄をも指さして「きれい」と言っていました。私が無意識にそう言っていたのかもしれませんが、もうすでに彼女の中には「きれい」の概念ができているのかなと思うとちょっと感動します。
 
 これからどんどん言葉を獲得していって、そのうち一丁前に会話に入ってくるのを楽しみにしつつも、言葉獲得中の今の娘としかできない「ちょっともどかしいやりとり」をずっと覚えていたいなと思っています。
鳥馬

もどかしい

2018-05-07
頭の中身を言葉にするのは難しい。
思っていることは、口に出してみるとそのとおりの形では出てこなくて、すかすかになったりねじ曲がったりする。
 
中学生のとき、N先生という国語の先生がいた。四十代半ばの、男の先生だった。
N先生が職員室にいることは稀で、たいてい、技術準備室で技術の先生と2人で石油ストーブを囲み、何を話すでもなくコーヒーを啜っていた。
昼休みや、部活のない放課後、よく友達と2人で技術準備室に行った。
私たちが行くと先生は、「また来たのか」とパイプ椅子を出してくれた。横でおしゃべりをしたり本を読んだりしていると、たまに私たちの話に笑ったり、本の表紙をのぞいて「ふうん」とつぶやいたりしていた。
先生は授業以外では無口だった。もっと話を聞きたかった私は、少し物足りなさも感じていた。
ある日、廊下でN先生と行き会った。
先生は何の前置きもなく、「君は最近乱読気味だな」と言った。「パール・バックの『大地』って知ってるか」
読んだことのない本だった。N先生に本を紹介されたのは初めてだったので、私は嬉しくてすぐに図書館でそれを借りた。
長い本だったけれど引き込まれ、一気に読んだ。よくわからないところもたくさんあったけれど、読み終えたときは頭の中がいろいろな思いでいっぱいだった。一刻も早く先生に感想を伝えたくて、技術準備室に走った。
しかし、N先生を前にして私が言えたのは、「面白かったです」という一言だけだった。
頭の中にあるのは、「面白かった」なんて言葉では全然伝えきれない、もっと具体的でごちゃごちゃとしたものだった。それなのに、全く言葉になってくれない。
大げさだが絶望的な気分になった。黙りこんだ私を見て、N先生は「そうか」とニヤニヤしていた。
伝えたいことをすっかり伝えられる言葉をもちたい。切実に思った。
 
20年経った今も、そんな言葉を手に入れられそうな気配はない。
一生懸命伝えようとすればするほど、「なんでこんなこと言ってるんだろう」と、相変わらず絶望している自分がいる。
N先生が無口だったのは、思いを、言葉を、できるかぎり丁寧に扱おうとしていたからなのかもしれない。最近ふとそう思った。
単に、うるさい女子中学生が面倒だっただけかもしれないけれど。
福井

蠢く

2018-04-04
 すっかり春だ。
 この「すっかり」は「春」という体言を修飾している副詞だ。副詞の説明に「主に用言を修飾する」と書いてあるのは、このように体言を修飾することもあるからだ。
 ――そんなことはどうでもいい。春なのだ。そんな些末なことにかかずらっている暇はない。
 春は全力疾走で駆け抜けていく。既に盛りは過ぎて、見る見るうちに遠ざかっていく。
 
 春は不思議な季節だ。
 今年はたまたま快晴が多かったが、「花曇り」という言葉が示すように、春は曇りが多い。それなのに、私たちの春のイメージは「晴れ」だ。暖かい気候や草花の芽吹く光景が、明るい印象を作っているのだろうか。
 一方、春には「妖しさ」「憂い」もある。与謝野晶子の有名な短歌を引用してみる。
 

 
  清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふひとみなうつくしき
(与謝野晶子『みだれ髪』)
 

 
 暖かさと肌寒さが入り混じった春の夜。月に照らされた桜の意外なほどの明るさ。暗さで人の顔が曖昧で、すれ違う瞬間にその鮮烈さにハッとする。夢と現実の境目がおぼろげになって、清水へ祇園をよぎっている女性に誘われて、読者である私はきつねに化かされたように春の夜に埋没していく。
 一般的には「幻想的」というのかもしれないが、使い古されたこの言葉には「きれい」くらいの意味しかないから、「妖しい」という言葉を使いたい。人ならざる世界の気配というといいすぎかもしれないが、春の夜には「狂気」に似た混濁がある。
 もうひとつ、三好達治の詩を引く。
 

 
  いしのうへ
 
  あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音あしおと空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺のいらかみどりにうるほひ
  廂々ひさしびさし
  ふうたくのすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治『測量船』)
 

 
 明るい春の日。桜の花びらが舞うなか、少女たちが上品に語らっている。彼女たちが石畳を行く足音は静かな寺に響き、少女たちはふと目線を上げて、人生の春を謳歌するように明るい寺を歩いていく。それを見ていた人の目線は少女たちから寺の屋根、廂と移り、最終的にはふいに憂いが到来する。明るく美しい光景を眺めながら、突然憂愁にとらわれるのは、春の混濁に埋没しきれない自分のせいなのか、あるいは春そのもののせいなのか。
 
 春は曇っていることが多いし、「妖しい」し、「憂い」も含んでいる。それなのに、私たちは春が大好きだ。桜のつぼみにやきもきし、爛漫の花の下で宴会をして、散る花で寂しくなり、葉桜に命の萌芽を感じる。春にはあらゆる感情が濃縮されていて、そしてどの感情も、春は許してくれるのだ。そこが春の器量の大きさであり、春の不思議さの正体なのだろうと思う。
 
  おい桜もう一度だけ咲いてくれ おまえの下で酒を飲むから
瓜角

的はずれな言葉

2018-02-07
寒い日が続いていますね。先日の雪の日、我が家のある地域でもけっこう積もり、給湯器の配管が凍結して丸1日お湯が出ないという事態が起こりました。
「外に出ている配管の部分にぬるま湯をかけてください」
と言われ、一日中コンロでお湯を沸かしては、
「恐らくこの管だろう…」
というものにお湯をかけることを繰り返していましたが、日が暮れても直らず。結局、業者の方に来ていただき、見てもらったところ、私は全然関係ない場所にお湯をかけていたことが判明しました。なんてこった。そして、すぐに直り、無事お湯が出てきたのです。ありがたかったです。首都圏でここまでの寒さは想定外らしく、
「これだけ寒かったら凍りますよ。仕方ない」
とのことでした。仕方ないとは…この先もっと寒くなったらどうしましょう。

そんな寒い中、私の友人が出産を経て、子育てをスタートさせました。彼女の旦那さんは仕事で朝早く帰りは遅いため、平日はほとんど一対一で子どもの面倒を見ているようでした。そんな彼女がSNSで、
「どうしよう…左のおっぱいだけ飲んでくれない…原因がわからなすぎて涙が止まらない」
というような投稿をしたときがありました。彼女の周りには私も含め、既に母となっている友達がたくさんいます。そんな私たちが、一斉に自分の体験を元にアドバイスをしました。
「抱き方が悪いのかもしれない」
「向きがしっくりこないのかもしれない」
「もしかしたら左だけ出てないのかもしれない」
などなど…私も自分の体験を伝え、最後に
「大丈夫!そのうち勝手に向かってきて飲むようになるから!」
と、伝えました。結局、その時は彼女の左胸が張りすぎていて硬くなってしまっていたから赤ちゃんが飲みにくかったみたいとのことで、問題は解決したようでした。そのようなことがあって数日経ち、そのことを思い出しながら、
「たとえば私がギャン泣きの新生児を抱えているときに、『そのうち勝手に向かってきて飲むようになるから!』と、伝えられたとしても、全然元気づけられないかもしれない」
と、ふと思ったのです。確かにそのうち自分で向かって来るようになるのですが、それまでに少なくとも5か月くらいはかかります。あと5分で何とかなるならまだしも、5か月後…生後20日のギャン泣きしている子を抱えていたら途方もなく先の話ですよね。そう思ったら、まったくもって的はずれな言葉を伝えてしまった、と反省しました。
これからは寄り添って、もっと想像して、言葉を伝えたいと思ったのでした。
鳥馬

愛について

2018-01-26
 読者諸氏は、普段どれくらい皿や茶碗について思いを馳せているだろうか。一日1時間くらいだろうか。文明人であれば、最低でも一日3時間くらいは考えてほしいところであるが、きっと諸般の事情があるのだろうから、寛大な私は許そうと思う。
 ちなみに私は、先日、ふるさと納税の返礼品として皿を頼んだ。有名な焼き物の産地で作られたものだ。本当は茶碗が欲しかったのだが、茶道はたしなんでいないし、ご飯茶碗は既に5つくらい持っているので、丸い平皿にした。
 
 私は焼き物を愛している。笠間焼、益子焼、九谷焼、美濃焼、瀬戸焼、信楽焼、京焼、楽焼、備前焼、萩焼、唐津焼、有田焼、波佐見焼……私は焼き物を愛しているのだ!
 なぜそんな渋いものが好きなのかと聞かれれば、「本阿弥光悦を知ってしまったから」と答えるのだが、その日本陶芸史に燦然と輝く天才のことを語り出すと、最低でも三日三晩はかかる(しかも、途中から感極まって泣き出してしまう)ので、別の機会にする。
 今回は、焼き物の中でも特に私が好きな「茶碗」のすばらしさについて、3つの観点から語ってみようと思う。(私の個人的な趣味により、作為を排した素朴な茶碗を中心に語ることを許されたい。)
 
 1つめの観点は、「使えること」である。もちろんオブジェとしての陶芸作品はたくさんあるのだが、陶芸が器をつくるために発達した技術である以上、使用可能性は重要な点である。使えるのに美しいのだ。美しいのに使っていいのだ。これは絵画や彫刻などにはない特質だといえる。(だから、本来的には、美術館でガラスケースに入れるべきではないと思うのだが、保護すべきものであるから仕方ない。)
 2つめの観点は、「偶然性」だ。陶器は焼く際にたいてい釉薬をかけるが、それが垂れることもあるし、焦げることもある。あるいは、窯の中で藁などが化学変化を起こして偶然釉薬の役割を果たすこともある。また、高温で焼くため、ひびが入ることもある。そのような窯の中でさまざまなことが起こった結果の様子を総じて「景色」とよぶが、その景色のわからなさが、茶碗に「緊張感」と「神秘性」を付与しているように思う。(もちろんプロはある程度計算してつくっているし、有田焼や京焼などの装飾を施すものでは偶然性を極力排す。それを否定しているわけではない。)
 3つめの観点は、形や景色で美しさを実現していることだ。ほとんどの絵画や彫刻が美しい具体物をかたどっているのに対して、茶碗は形や景色で美しさをつくっている。つまり、(ドン引きされることを恐れずにいうなら)茶碗は美しい何かを表現しているのではなく、美しさというものを表現(創造)しているのだ。そのことは、茶の湯(侘茶)の世界で「一楽二萩三唐津」といわれ、日本の焼き物ののなかで特に作為を排した楽焼、萩焼、唐津焼がよしとされてきたことと無関係ではないだろう。限りなく狭い茶室で余分なものを極力排した茶碗を使って茶を飲むという行為は、世界の核心に迫ろうとする営みであるように思える。
 
 ……伝わっただろうか。つい筆に任せて、だらだらと語ってしまった。冗長なのは悪い癖だ。要するに何が言いたかったかというと、「茶碗はエモい」ということである。……語弊があるかも。
※ここで書いたことはすべて個人の思いです。
 
  「好きだ」では伝えられない「好き」だから「好き」以外では伝えられない
瓜角
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