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スタッフblog「季の風」

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お月さま

2018-12-20
 もうすっかり冬ですね。毎朝「今日をいかに暖かく過ごすか」ということだけを考えて服を選んでいます。それなのに、風邪をひいて2週間…全然治りません。早く治れ治れ。
 娘が11月で2歳になりました。2歳ともなると、できることが増えて、おしゃべりも増えて、いろんなことを伝えようとしてくれます。
 先日、保育園からの帰り道で自転車の後ろに乗った娘が
「うえーみてーおつきさま、いるねー」
と言いました。
「そうね―お月さまいるね。今日は三日月だから細いねー」
と答えたら、
「おつきさま、おおきいおせんべ、たべてるねー」
と言いました。私は「???」という反応しかできなかったのですが、もしかしたら娘にはお月さまが大きな口をあけておせんべいを食べてるように見えたのかもしれないと思って、ほっこりしました。
 娘を見ていると、子どもの発想力って本当に豊かだなと思います。きっと物語の中で生きているのでしょうね。私にもそういう時代があったはずなのに、うらやましいなと思いながら、娘の目に映る世界を共有させてもらっている日々です。
鳥馬

ジャイアントパンダは電気猫の夢を見るか?

2018-09-28
 人間は2つの動物に支配されている。猫様とジャイアントパンダ様である。
 猫様は今更説明するまでもないだろう。猫様は我々人間を直接使役なさっている。というより、使役していただいている。
 猫様は犬のように人間にしっぽを振ったり、人間の投げたボールを追いかけたりしない。ねこじゃらしは……勘違いしてはいけない。人間が猫様をじゃらしているのではなく、猫様が人間をじゃらしているのである。
 人間は猫様にないがしろにされればされるほど喜ぶように調教され、すっかり牙を抜かれてしまった。猫様に反抗しようものなら、たちまち猫パンチが飛んでくるのだ。無理もない。猫様にかなうわけがないのだ。
 ――嗚呼、私も猫様に睥睨されたい。
 
 ジャイアントパンダ様の支配は、暴力的で無自覚的な人たらしの才によるものである。ジャイアントパンダ様は基本的に竹を召し上がっているか、お休みになっているかどちらかである。そのお姿も人間が感興をもよおすに充分ではあるが、ときおり気まぐれにお歩きになっているところとか、何頭かでお戯れになっているところとか、そのようなお姿は人間を狂わせてやまない。
 ジャイアントパンダ様と人間では文字どおり、住む世界が違う。ガラスや柵で隔てられ、我々の愛は決して届かない。人間のなかには、人間がジャイアントパンダ様を檻に入れているのだと勘違いしている連中もいるが、逆である。檻に入っているのは我々のほうである。でなければ、人間がこんなに不自由であるはずがない。
 もしかしたら、ジャイアントパンダ様に人間を支配しているという自覚はないかもしれない。猫様が人間をこき使ってくださっているのに対し、ジャイアントパンダ様は人間をこき使うに値するものとして見ていないのだ。勝手に自分の世話を焼きたがる生き物くらいの認識だろう。
 ――嗚呼、私もジャイアントパンダ様に無視されたい。
 
 一見正反対の方法で人間を支配している猫様とジャイアントパンダ様だが、悠然とした生き方には共通するものがある。
「生き急ぐな。ゆっくり歩け」――猫様とジャイアントパンダ様は、人間に生きる極意を授けてくださっているのかもしれない。
 上野のシャンシャン様は1歳の誕生日を迎えられ、和歌山ではジャイアントパンダの姫君がお生まれになった。2頭の健やかなご成長は、みっともなくじたばた生きるしかない人間たちにとって目下最大の関心事で、今日も動物園では下卑た歓声が上がっている。
 猫様やジャイアントパンダ様の周辺でぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるしか能がない人間どもが、泰然自若として生きよという高尚なメッセージを受け取れるかどうか、甚だ疑問である。
 
  白黒をつけずに生きる今日も目を白黒させて苦笑いする
瓜角

言葉を獲得していくということ

2018-07-03
 産育休を経て、職場に復帰し早いもので2か月が経ちました。一歳七か月になった娘を家の近くの保育園に送り届け、出社するという生活にもだんだん慣れてきました。娘を自転車の後ろに乗せ、チャイルドシートの手すりに貼ったシールを指して、「ぎゅーだよ」と声を掛けると、「ぎゅー!」とにぎって返事をしてくれるのが朝、出発前の定番になっています。
 
 娘は今、ぐんぐん言葉を獲得しているところで、結構やりとりができるようになりました。彼女が何か伝えようとしているのを見るのはとてもおもしろいです。のどが渇いたときは「のむ!」と言ってコップを指さし、犬のことは「わんわ」、鳥は「ピッピ」、タンポポは「ポポ」、バナナは「ナナ」で、ねこは「こ」、バスだけは正しく「バス」と言えています。それを見つけると嬉しそうに「わんわ!あー!わんわ!」と言って指さして教えてくれます。それがたとえ「犬のフンは持ち帰りましょう」と書かれている看板に描かれた小さな犬のイラストでも。
 
 そんな娘が覚えた言葉のひとつに「きれい」があります。ちょうど桜が満開の頃、家の近所を散歩しながら「桜が満開だね。きれいだね。」とよく話しかけていたあたりから覚えたと思います。おもしろいなと思ったのが、最初は桜を見たときにしか「きれい」と言わなかったのに、最近はいろいろなものに対して「きれい」を使うことができるようになっていました。別の花が咲いているときも「きれい」と言うし、私がアクセサリーをつけているのを見つけても、キラキラした髪留めを見つけても、たくさんのしゃぼんだまを指さしても、敷布団の花柄をも指さして「きれい」と言っていました。私が無意識にそう言っていたのかもしれませんが、もうすでに彼女の中には「きれい」の概念ができているのかなと思うとちょっと感動します。
 
 これからどんどん言葉を獲得していって、そのうち一丁前に会話に入ってくるのを楽しみにしつつも、言葉獲得中の今の娘としかできない「ちょっともどかしいやりとり」をずっと覚えていたいなと思っています。
鳥馬

もどかしい

2018-05-07
頭の中身を言葉にするのは難しい。
思っていることは、口に出してみるとそのとおりの形では出てこなくて、すかすかになったりねじ曲がったりする。
 
中学生のとき、N先生という国語の先生がいた。四十代半ばの、男の先生だった。
N先生が職員室にいることは稀で、たいてい、技術準備室で技術の先生と2人で石油ストーブを囲み、何を話すでもなくコーヒーを啜っていた。
昼休みや、部活のない放課後、よく友達と2人で技術準備室に行った。
私たちが行くと先生は、「また来たのか」とパイプ椅子を出してくれた。横でおしゃべりをしたり本を読んだりしていると、たまに私たちの話に笑ったり、本の表紙をのぞいて「ふうん」とつぶやいたりしていた。
先生は授業以外では無口だった。もっと話を聞きたかった私は、少し物足りなさも感じていた。
ある日、廊下でN先生と行き会った。
先生は何の前置きもなく、「君は最近乱読気味だな」と言った。「パール・バックの『大地』って知ってるか」
読んだことのない本だった。N先生に本を紹介されたのは初めてだったので、私は嬉しくてすぐに図書館でそれを借りた。
長い本だったけれど引き込まれ、一気に読んだ。よくわからないところもたくさんあったけれど、読み終えたときは頭の中がいろいろな思いでいっぱいだった。一刻も早く先生に感想を伝えたくて、技術準備室に走った。
しかし、N先生を前にして私が言えたのは、「面白かったです」という一言だけだった。
頭の中にあるのは、「面白かった」なんて言葉では全然伝えきれない、もっと具体的でごちゃごちゃとしたものだった。それなのに、全く言葉になってくれない。
大げさだが絶望的な気分になった。黙りこんだ私を見て、N先生は「そうか」とニヤニヤしていた。
伝えたいことをすっかり伝えられる言葉をもちたい。切実に思った。
 
20年経った今も、そんな言葉を手に入れられそうな気配はない。
一生懸命伝えようとすればするほど、「なんでこんなこと言ってるんだろう」と、相変わらず絶望している自分がいる。
N先生が無口だったのは、思いを、言葉を、できるかぎり丁寧に扱おうとしていたからなのかもしれない。最近ふとそう思った。
単に、うるさい女子中学生が面倒だっただけかもしれないけれど。
福井

蠢く

2018-04-04
 すっかり春だ。
 この「すっかり」は「春」という体言を修飾している副詞だ。副詞の説明に「主に用言を修飾する」と書いてあるのは、このように体言を修飾することもあるからだ。
 ――そんなことはどうでもいい。春なのだ。そんな些末なことにかかずらっている暇はない。
 春は全力疾走で駆け抜けていく。既に盛りは過ぎて、見る見るうちに遠ざかっていく。
 
 春は不思議な季節だ。
 今年はたまたま快晴が多かったが、「花曇り」という言葉が示すように、春は曇りが多い。それなのに、私たちの春のイメージは「晴れ」だ。暖かい気候や草花の芽吹く光景が、明るい印象を作っているのだろうか。
 一方、春には「妖しさ」「憂い」もある。与謝野晶子の有名な短歌を引用してみる。
 

 
  清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふひとみなうつくしき
(与謝野晶子『みだれ髪』)
 

 
 暖かさと肌寒さが入り混じった春の夜。月に照らされた桜の意外なほどの明るさ。暗さで人の顔が曖昧で、すれ違う瞬間にその鮮烈さにハッとする。夢と現実の境目がおぼろげになって、清水へ祇園をよぎっている女性に誘われて、読者である私はきつねに化かされたように春の夜に埋没していく。
 一般的には「幻想的」というのかもしれないが、使い古されたこの言葉には「きれい」くらいの意味しかないから、「妖しい」という言葉を使いたい。人ならざる世界の気配というといいすぎかもしれないが、春の夜には「狂気」に似た混濁がある。
 もうひとつ、三好達治の詩を引く。
 

 
  いしのうへ
 
  あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音あしおと空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺のいらかみどりにうるほひ
  廂々ひさしびさし
  ふうたくのすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治『測量船』)
 

 
 明るい春の日。桜の花びらが舞うなか、少女たちが上品に語らっている。彼女たちが石畳を行く足音は静かな寺に響き、少女たちはふと目線を上げて、人生の春を謳歌するように明るい寺を歩いていく。それを見ていた人の目線は少女たちから寺の屋根、廂と移り、最終的にはふいに憂いが到来する。明るく美しい光景を眺めながら、突然憂愁にとらわれるのは、春の混濁に埋没しきれない自分のせいなのか、あるいは春そのもののせいなのか。
 
 春は曇っていることが多いし、「妖しい」し、「憂い」も含んでいる。それなのに、私たちは春が大好きだ。桜のつぼみにやきもきし、爛漫の花の下で宴会をして、散る花で寂しくなり、葉桜に命の萌芽を感じる。春にはあらゆる感情が濃縮されていて、そしてどの感情も、春は許してくれるのだ。そこが春の器量の大きさであり、春の不思議さの正体なのだろうと思う。
 
  おい桜もう一度だけ咲いてくれ おまえの下で酒を飲むから
瓜角
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