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スタッフblog「季の風」

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愛について

2018-01-26
 読者諸氏は、普段どれくらい皿や茶碗について思いを馳せているだろうか。一日1時間くらいだろうか。文明人であれば、最低でも一日3時間くらいは考えてほしいところであるが、きっと諸般の事情があるのだろうから、寛大な私は許そうと思う。
 ちなみに私は、先日、ふるさと納税の返礼品として皿を頼んだ。有名な焼き物の産地で作られたものだ。本当は茶碗が欲しかったのだが、茶道はたしなんでいないし、ご飯茶碗は既に5つくらい持っているので、丸い平皿にした。
 
 私は焼き物を愛している。笠間焼、益子焼、九谷焼、美濃焼、瀬戸焼、信楽焼、京焼、楽焼、備前焼、萩焼、唐津焼、有田焼、波佐見焼……私は焼き物を愛しているのだ!
 なぜそんな渋いものが好きなのかと聞かれれば、「本阿弥光悦を知ってしまったから」と答えるのだが、その日本陶芸史に燦然と輝く天才のことを語り出すと、最低でも三日三晩はかかる(しかも、途中から感極まって泣き出してしまう)ので、別の機会にする。
 今回は、焼き物の中でも特に私が好きな「茶碗」のすばらしさについて、3つの観点から語ってみようと思う。(私の個人的な趣味により、作為を排した素朴な茶碗を中心に語ることを許されたい。)
 
 1つめの観点は、「使えること」である。もちろんオブジェとしての陶芸作品はたくさんあるのだが、陶芸が器をつくるために発達した技術である以上、使用可能性は重要な点である。使えるのに美しいのだ。美しいのに使っていいのだ。これは絵画や彫刻などにはない特質だといえる。(だから、本来的には、美術館でガラスケースに入れるべきではないと思うのだが、保護すべきものであるから仕方ない。)
 2つめの観点は、「偶然性」だ。陶器は焼く際にたいてい釉薬をかけるが、それが垂れることもあるし、焦げることもある。あるいは、窯の中で藁などが化学変化を起こして偶然釉薬の役割を果たすこともある。また、高温で焼くため、ひびが入ることもある。そのような窯の中でさまざまなことが起こった結果の様子を総じて「景色」とよぶが、その景色のわからなさが、茶碗に「緊張感」と「神秘性」を付与しているように思う。(もちろんプロはある程度計算してつくっているし、有田焼や京焼などの装飾を施すものでは偶然性を極力排す。それを否定しているわけではない。)
 3つめの観点は、形や景色で美しさを実現していることだ。ほとんどの絵画や彫刻が美しい具体物をかたどっているのに対して、茶碗は形や景色で美しさをつくっている。つまり、(ドン引きされることを恐れずにいうなら)茶碗は美しい何かを表現しているのではなく、美しさというものを表現(創造)しているのだ。そのことは、茶の湯(侘茶)の世界で「一楽二萩三唐津」といわれ、日本の焼き物ののなかで特に作為を排した楽焼、萩焼、唐津焼がよしとされてきたことと無関係ではないだろう。限りなく狭い茶室で余分なものを極力排した茶碗を使って茶を飲むという行為は、世界の核心に迫ろうとする営みであるように思える。
 
 ……伝わっただろうか。つい筆に任せて、だらだらと語ってしまった。冗長なのは悪い癖だ。要するに何が言いたかったかというと、「茶碗はエモい」ということである。……語弊があるかも。
※ここで書いたことはすべて個人の思いです。
 
  「好きだ」では伝えられない「好き」だから「好き」以外では伝えられない
瓜角

お年玉の伝統的な金額について

2017-12-07
 私の実家では、年越しまえに家族総出でもちを作る。
 朝早く起きて、もち米を蒸しているあいだに、部屋の床にブルーシートを敷いて、作業台を置き、片栗粉を振っておく。
 ミキサーみたいな刃がついたボウルを箱に埋め込んだような「電動もち製造マシン」に蒸したもち米を投入してもちにしていく。
 できたもちは祖父が大胆にも手づかみで持ちあげて、作業台の上に置く(というか放り投げる)。冷めて硬くなる前に、祖母と母がやけど覚悟で熱いもちを食べやすいサイズにちぎっていく。そのもちをきれいに整形するのが私たち子供の役目だ。(私の地域は丸もちだ!)
 
 今の私にとっては立派な年の瀬の光景なのだが、子供の頃はどうも趣に欠けるような気がしていて、臼と杵を使おうと毎年のように提案していた。
 実は、倉庫の奥には立派な臼と杵が鎮座していて、見事な埃をたたえていたのだ。地域のイベントなどで引っ張り出すことはあっても、家族で使ったことはない。
 
 私は学校で習ったとおりの「伝統的な年越し・正月」をしてみたかったのだろうと思う。
 ぺったんぺったん外でもちをつき、除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べて、着物を着て初詣に行って、雑煮と重箱に入ったおせち料理を食べ、書初めをして、羽子板と凧揚げで遊び――。
 しかし実際のところ、重箱に入ったおせち料理など食べたことがないし、書初めも羽子板もしたことがない。凧揚げはすぐに飽きてしまった。
 
 まあ、そんなものだろう。
 程度の差こそあれ、教科書どおりの年中行事を完璧にこなしている家庭などほとんどないだろうし、それでいいのだと思う。
 「伝統」をないがしろにするつもりはないが、「伝統」が醸成された環境と今の生活環境は全く違う。羽子板や凧揚げなど都会ではする場所がないし、三が日に女性が休むために保存のきくものを詰め込んだものがおせち料理なら、買うなり外食するなり、もっと簡単に休む方法はいくらでもある。
 「伝統」を守ることに無理をしないことが大切なのだと思う。「電動もち製造マシン」はそれを象徴していたような気がする。
(お年玉も無理をしない程度に、一人500円くらいでいいのだ……子供たちに嫌われてもいいのなら)
 
  子供らよ! サンタクロースが来るのだしお年玉などいらないだろう?
瓜角

食いしん坊の生きざま

2017-10-16
私は先日、虫を食べた。
タランチュラのような見た目のクモの素揚げだった。(写真を掲載したいのだが、総スカンを食いそうなのでやめておく)
脚は細かい毛がたくさん生えていて、ポリポリという触感。胴体は、中から液体があふれてくるのではないかという予想に反して、結構身がしっかりしていた。味は特になかった。
 
クモを食べることに抵抗感のなかった私だが「さすがにこれは食べられないかもしれない」と思ったものがある。
うじ虫を入れたチーズとか、孵化する直前の卵を使ったゆで卵などである。(いやはや、なかなか、どうして、世界は広い。)
うじ虫チーズは衛生的に心配(いや、本当は衛生的にも問題ないのかもしれないが)だから、どうしてもたじろいでしまう。
では、孵化直前の卵を使ったゆで卵に抵抗感を覚えるのはなぜだろう。私は普段、卵も鶏肉も食べるというのに――。
 
現代の日本で生きている私たちが「食べよう」と思えるものには、いくつかの条件があると思うのだが、その一つに、「痛そうでない」というのがあるように思う。
日常的に丸ごと食べる――たとえば魚は、私たちとは体の形が違いすぎて「痛そうではない」。(ちなみに、私が食べたクモも「痛そうではなかった」。)
一方、他の肉類は「痛そうな」場面が徹底的に隠されている。当然、牛や豚や鶏は殺されて、バラバラにされているのだが、私たちが普段見る肉塊に、そのような「いのちのなまぐささ」は感じない。
しかし、孵化直前の卵で作ったゆで卵は、当然ながら中身はほぼ雛で、「痛そう」なのだ。
 
人はいろいろなものを殺しているし、殺さなければ生きられない。
そして、おそらく、殺されることは、とてつもなく「痛い」。
私が孵化直前の卵で作ったゆで卵に抵抗感を覚えたのは、普段は忘れている「殺しているという事実」を思い出させられたからではないか。
私は、心穏やかに「殺している」ことを忘れていたいのだ。
それが、健全なことなのかは、私にはわからない。しかし、思い出したことは案外大切なことであるような気持ちもしている。
食べられるかどうかは、別の問題だが。
 
 
わたがしのやうな味かと尋ねけり 母と彼方の空を仰ぎて
 
瓜角
【参考】
『いのちの食べかた』(森達也著 理論社)
『うちは精肉店』(本橋成一著 農山漁村文化協会)

なぜ勉強するのか

2017-05-25
 教育現場にいたころ、「なぜ勉強するの?」「こんなこと勉強して将来何の役にたつの?」とよく聞かれた。勉強の難易度があがり、苦手な教科がはっきりしやすい中学生によく聞かれたと思う。
 
 このことに関して、ある中学3年生の男子生徒とのやりとりを今でも覚えている。彼の担当講師になってしばらくたったころ、こう聞かれた。「俺は将来美容師になりたい。美容師になるのに今やっている勉強が何の役にたつのか分からない。なんでこんなことを勉強しなければいけないのか。」そのとき勉強していたのは、彼が苦手としていた数学の一次関数だった。確かに一見美容師とは関係なさそうな分野である。苦手な分野に対して愚痴をもらすように聞いてきた質問だったのだが、だからこそ簡単に答えるわけにはいかなかった。少し時間をもらって次の授業のときに答えることにした。
 
 次の授業のとき、彼に自分なりに考えた二つの答えを話した。一つ目は「お客様の趣味に合わせたいろいろな話ができる美容師になるため」ということ。お客様にはいろいろな人がいて、好みもそれぞれ違う。その人に合わせた話ができるように、勉強して知識を広げておくことは大切だ、と話した。二つ目は「将来の選択肢を狭めないため」ということ。これからひょっとしたらなりたい職業が別に出てくるかもしれない。そのときに今勉強している知識が必要になることだってあるかもしれないから、将来の自分のために勉強しよう、と話した。
 
  もっといろいろと細かく話していたのだが、今思えば一つ目はやや屁理屈じみて、二つ目はややネガティブな回答だったような気がする。それでもそのときの彼は納得した様子で勉強し始めた。彼にはこの回答でよかったらしい。
 
 子どもと接しているときよく感じたのが、子どもは自分の質問に、丁寧に真剣に答えてくれることを、大人が思っている以上に大切にとらえている、ということだった。「なぜ勉強しなければいけないのか」という問いに対して、子どもが十人いれば求められる回答は十通りあり、大人が十人いれば出てくる回答も十通りある。その子どもの個性や置かれた状況に応じて、時には自分の体験も交えながら、誠意をもって答えてあげるのが大人の仕事の一つであると思う。最近はこの質問をされる機会はめっきりなくなったのだが、大人として自分の言葉で答えてあげられるように考え続けたいテーマである。

「なぜ?」の面白さ

2017-05-19
まず、私の教師時代、小学4年生だった児童から受けた質問を紹介したいと思います。
 
ここに16cmの紐が1本あります。まず、この紐を4等分にして正方形を作ります。できた正方形の面積は4×4=16(cm2)です。次に、同じ紐で縦3cm,横5cmの長方形を作ります。できた長方形の面積は3×5=15(cm2)です。 同じ長さの紐で四角形を作っているはずなのに、面積が違います。なぜでしょうか?
 


 

私はとても面白いと思いました。みなさんはどのように考えますか。
 
結果を言えば、形が違えば面積が違うというのは数学的に言えば当然です。 縦1cm、横7cmの長方形を作れば、面積は1×7=7(cm2)になりますし、面積を0(cm2)にすることもできます。二次関数の微分を使って証明もできますが、ここはそれが本題ではないので割愛します。
 
恐らくこの児童は、〝周長が同じ紐でどんな形を作っても、面積は同じになるのではないか〟と思い込んでいたのかもしれませんが、私が面白いと感じたのは、当たり前として受け止められる事実に、「なぜだろう?」と疑問を抱いたことです。
 
人は、心の中であらかじめ当たり前だと思ったことについては考えることをやめてしまいがちです。数学で例を挙げると「三角形の内角の和は180°である」などです。
 
これは、数学者ユークリッドが編纂した『原論』の中で既に証明されていたものですが、19世紀頃に生まれた〝非ユークリッド幾何学〟の球面幾何学で言うと、三角形の内角の和は180°より大きくなるのです。この球面幾何学の考え方は哲学の世界にも影響を与えて、「構造主義」の潮流が生まれました。
 


90°×3=270°

このように、当たり前だと思っていることに「なぜ?」を抱くことで、違う答えや知らなかった側面が見えてきて、それが他分野の発展につながったものが他にも多くあります。
「なぜ?」という疑問を出発地点として、今の文明社会が築かれたと言っても過言ではありませんね。

最後にもう一つだけ。1日が24時間なのはなぜでしょうね。恥ずかしながら、私は昔〝1日がもっと長ければいいのに〟などとよく思ったものです。

もちろん地球の自転速度により1日の時間が決められているのですが、技術が発達した現代で地球の自転速度を計ると、必ずしも一定の速度ではないことがわかりました。地球の自転の速度が一定ではないということは、1日の時間が増えたり減ったりズレが生じるということです。つまり、1日は正確に24時間ではないのです。国立天文台の計算によると、1990年頃の自転速度は遅く(1回転が24時間よりもわずかに長くかかる)、もしこのズレが1億8千万年続くと、1日の時間は25時間になるそうです。このことを知ったときは〝おお、1億8千万年後が羨ましい〟などと思ってしまいましたが、いろいろと大変なことになりますね。そこで、このズレが累積した際に人が意図的に時間を調整する必要があります。この調整を、〝うるう秒〟と呼びます。自転速度が遅い日が続いたときは1日の時間に1秒追加し、自転速度が速い日が続いたときは1日の時間から1秒減らします。今まで自分が知らなかったところで、時間でさえも人の手によってしっかり管理されていたのですね。うーん、驚きました。

小学生の疑問からちょっと壮大な話に膨らんでしまいましたが、既に解明されていることを調べること、未だ解明されていないものを考えようとすること――「なぜ?」を抱くことを出発点として、これからもいろいろなことを学んでいきたいものです。
浪子
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