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スタッフblog「季の風」

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説明することの難しさ

2016-10-31
妊娠後期に入り、おなかの子に話しかける日々を過ごしています。
そのようなとき、私は大抵一人で二役を演じます。
「お出かけするよー。」
「はーい。どこ行くの?」
「いつも行っている近くのスーパーマーケットだよ。あ、雨降ってるね。」
「雨ってなーに?」
「雨っていうのは・・・空から水が降ってくることだよ。」
「水ってなーに? 空ってなーに?」
「えーとね・・・水は・・・ちゃぷちゃぷしているもので、  空は上のほうにあるものだよ。」
といった感じなのですが、 まだ何も知らない、見たこともない人に何かを説明するのは とても難しいことだと思いました。
ひとまず「雨」についてきちんと説明がしたかったので、 家に帰り「雨」を辞書で引いてみました。

まずは『広辞苑 第六版』岩波書店
①大気中の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって地上に落ちるもの。
もう一冊『新明解語辞典 第七版』三省堂
空間的・時間的にある範囲にわたって、空から水滴が降ってくる現象。
また、その水滴。
うーん・・・胎児には少々高度すぎましたね。

でも、言葉だけ知っていても実際のものと接したことがないと、本当の意味で「知っている」ということにはならないのかもしれないと思いました。
人は実際にそれを見たり、感じてたりしながら言葉と結び付けて、そのものの名前を覚えていくのでしょうね。
なので、「なーに?」が続いてしまうときは
「生れてきてから教えてあげる! いろいろなもの見たり、いろいろな場所に行ったり、たくさんのことを一緒にしようね。」
と伝えることにしました。
鳥馬

恥の多いしりとり

2016-10-24
太宰の有名な作品ではないが、生きていくうえで恥ずかしい瞬間はたくさんある。
満員電車のなかでこけたとき、雨の日のコンビニで足を滑らせたとき、したり顔を人に指摘されたとき、フランス語の授業で発音を何度も直されたとき、上京して初めて標準語を口にしたとき、一人称を変えたことがバレたとき、誰にも言っていないのに彼女ができたことをクラスの全員が知っていたとき、間違えて小学校の担任の先生を「お母さん」と呼んでしまったとき、
――恥ずかしいことは思い出すだけで恥ずかしい。
本当に恥の多い生涯を送ってきたわけだが、 私が今まででいちばん多く感じたのは「しりとり」の恥ずかしさだ。
私は恥ずかしくて「しりとり」ができない。正直、「しりとり」と発音することさえ少し恥ずかしい。
「しりとり」→「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→…… 文脈から切り離された「ゴリラ」や「ラッパ」の音があまりにも幼稚に響いて、それを発言している私自身をふわふわさせる。
私は今「ラッパ」の後に「パンダ」と言おうとしている。「パ」のつく言葉といえば真っ先に「パンダ」を思い浮かべる私のことを、周りはどういうふうに思うのだろうか。
「パスタ」のほうがいいだろうか。いや、普段「スパゲティ」「マカロニ」で通してきた私が 「パスタ」なんてキザすぎて言えるはずがない。「パントリー」なんておしゃれすぎて何のことかよく知らないし、「パソコン」ではしりとりが終わってしまう。
パ、パ……、「パスポート」! これならちょうどいい!
――こんなことを考えて、すぐに言葉が出なくなる。というより、頭にある言葉を口に出すのが恥ずかしくなる。私が口に出していい言葉は、私のキャラクターに合ったものだけであるような気がして、言葉と自分の距離感を測ろうとして、混乱してしまう。
私は「パスタ」よりは「スパゲティ」「マカロニ」と言うキャラであり、旅行は好きだから「パスポート」と口にしてもいいが、家は狭いから「パントリー」と口にしないキャラである。
文脈を気にせずに「ラッパ」と言えるほど子供ではないが、音楽はかじっていたからトランペットやその他の金管楽器のことを「ラッパ」と言うことはあるキャラである。
「役割語」というほどのものではないが、それぞれの言葉はそれを口に出す人のイメージを伴っている。そして、それぞれのイメージを持つ言葉を使ってきた末に 「私」というキャラクターは生まれた。
私のボキャブラリーは私のキャラクターそのものだといっても 過言ではないかもしれない。だから言葉選びには気をつけてきた。いや、というよりも、屈託してきたといったほうがいい。
最近、もう少し、言葉遣いに冒険があったほうがよかったかもしれない と思うようになった。
せめて、しりとりがすぐ終わらない程度には。
それは、青臭い言い方をすれば、自分の殻を破ることになるのかもしれない。
しりとりで「鱚」はずるいよ 明らかに僕に「鋤」って言わせる罠だ
瓜角

贈りもの

2016-10-03
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
(谷川俊太郎編『祝婚歌』書肆山田)

吉野弘さんの「祝婚歌」の一部です。私が結婚したときに、小学校時代の恩師から 「この詩を贈ります」と書かれた付箋が立った詩集をいただきました。
そんな素敵なプレゼントの存在を忘れて過ごし、1年が経とうとしていました。
私達夫婦は共働きですが、できることなら家事は私が担当したくて、洗濯、掃除、料理はすべて私がやっていました。

ところが今年の春先に妊娠してからは、思うように仕事も家事もこなせなくなってしまったのです。
さらには妊娠中期に「切迫早産」と診断され、なるべく安静にして過ごさねばならなくなり、どんどん自分の思うように生活できなくなっていきました。
そんな中でも、おなかの子は着々と成長していました。
「赤ちゃんの聴覚は発達し、既に外の音が聞こえるようになっています」 という時期に突入したとき、外の音が聞こえているなら何か読み聞かせをしてあげようと思い、本棚から詩集を取り出し、声に出して読みました。
そこで再びこの詩の「完璧をめざさないほうがいい」を読みながら、気持ちが楽になっていくのを感じました。
妊娠してからというもの、おなかの子からは教わることばかりです。この詩に再び出合い、考え方を見直せたのも、 この子のおかげだと思っています。
学生のとき、ある教授がおっしゃった 「『子育て』は、『子育てられ』でもある」が、既に始まっているようです。
鳥馬

しっくりくる言葉

2016-09-20
子供の頃の一時期、私は本を読めなかった。
児童書を読むにはひねくれていたし、一般向けの書籍は内容以前の問題でつまずいてしまった。
「生れる」とか「聞える」とか、あるいは「訊ねる」「歎く」、「奇蹟」「蒐集」
――そのときの私から読書の楽しみを奪っていたものは、こういう学校で習わない表記だった。学校で習ったことが唯一無二の正しさだった私は、見慣れない送り仮名や漢字がひたすらむずがゆかった。この頃の読書体験は、だから、驚くほど貧弱だ。
そんなのんきな懊悩を抱えて数年たった頃、国語の先生だったか友達だったかに、慣れ親しんだ「現われる」という送り仮名が“誤り”だと知らされた。
重大な過ちにショックを受けつつも、私は、「現われる」と書くほうが「現れる」と書くよりもしっくりくるのに、と思った。
“しっくりくる”。ふと思い至ったこの言葉に、私は今までの屈託がすっと消えていく気がした。
表記は価値観であり、美的感覚だということを突然了解したのだ。

“誤り”だと思っていたから読めなかった。その人の「歎」の形をした「なげき」を、その感覚のまま味わえばよいのだ。
「きこえる」ものはその筆者にとって三文字でしかありえないし、その作者の「きせき」には「蹟」のような整然と横線が並んだ字がふさわしい。
――この発見のおかげかどうかはわからないが、私は今、本を読むことができる。
(付言するなら、実は「現われる」という書き方も誤りというわけではない、ということを最近になって知った。)

大人になって、例えば、「希薄」の「希」は「稀」の代用であることを知った。
どちらを使ってもいいのであれば、やはり「稀薄」か「希薄」かの選択には、書き手の言葉に対する感覚が反映されていそうだ。たとえ「稀」という字を知らなくて「希薄」と書いているだけでも、それはそれで、その人の今までの言語体験が反映されているのだろう。
「稀薄」という表記をする人は、「本来の形」にこだわる人なのか、それとも「希」に「うすい」という意味を持たせたくない人なのか、あるいは「稀」という字の形が好きな人なのか。
「希薄」を用いる人は、読みやすさを考えて難しい字を使わないようにしたのか、手書きだから画数が多い字を書きたくなかったのか、「のぎへん」が嫌いなのか。

今の私は漢字の運営能力をかなり機械にゆだねてしまった。今さら手書きの生活に戻ることはできないだろう。それは少し寂しいことではあるけれど、仕事をするにしても、友人と休日の予定を決めるにしても、ケータイ、スマホ、PCを使わないと始まらない。
だから、せめてこういう文章を書くときくらい、「たてもの」を「建て物」と書かないのはなぜだろうとか、「寂しい」と「淋しい」の違いは何だろうとか、そういうのんきな懊悩を抱いていたいと思っている。
君が聴く歌の歌詞には「泪」って書いてあるから僕もそう書く
瓜角

夏の匂い

2016-08-03
ものぐさな母は空になったジュースのペットボトルを麦茶の容器として使っていた。だから、私にとって、麦茶はオレンジジュースやスポーツドリンクや炭酸飲料の匂いがするものだった。
本物の麦茶を知っている今となっては、その複雑な風味が本来のものとは違うのだとわかるけれども、子供の頃の私にとっては、あれこそが麦茶だったから、おいしいもおいしくないもない。
プールや海で遊んだ後にふやけた指を気にしながらがぶ飲みした夏の思い出は、そんな匂いとともにある。

潮の匂い、塩素の匂い、夕立の土の匂い、花火の火薬の匂い、蚊取線香の匂い。――そういうものがいちいち思い出と結びついていて、夏という季節は暑いくせに嫌いになれない。
海、すいか、ラムネ、入道雲、日焼け跡。 神社、木陰、蝉時雨、とうもろこし、肝試し。祖母が畑で育てたすいかはあまりおいしくなかったし、たかが小学生の演じるおばけは怖がりの私でも怖くなかったが、大叔父が捕まえて持ってきてくれるカブトムシは最高に格好良かったし、隣家の庭で行われるバーベキューは子供の私には夏の一大イベントだった。
夏の記憶は匂いとともに思い出す。しかし、匂いを言葉では伝えられない。
相手が同じ匂いを想起できるかどうかは、相手の経験次第だ。
逆も然り、相手の言葉や文章をどこまで理解できるかは、もちろん、基本的な読解能力は前提となるが、自分の経験によるところが大きい。
「学校では教えてくれない大切なこと」という食傷気味の台詞が意味しているところはこういうことではないだろうか。

自分の経験の豊かさによって、相手をどれだけ深く理解できるかが左右される。それは、もしかしたら「優しさ」とも関係しているかもしれない。
匂いの記憶のバリエーションがその人の優しさだといったら、いい過ぎだと笑われるだろうか。
浴衣着てラムネを上手に飲む父が誰よりすごい人だった夜
瓜角
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