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スタッフblog「季の風」

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贈りもの

2016-10-03
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
(谷川俊太郎編『祝婚歌』書肆山田)

吉野弘さんの「祝婚歌」の一部です。私が結婚したときに、小学校時代の恩師から 「この詩を贈ります」と書かれた付箋が立った詩集をいただきました。
そんな素敵なプレゼントの存在を忘れて過ごし、1年が経とうとしていました。
私達夫婦は共働きですが、できることなら家事は私が担当したくて、洗濯、掃除、料理はすべて私がやっていました。

ところが今年の春先に妊娠してからは、思うように仕事も家事もこなせなくなってしまったのです。
さらには妊娠中期に「切迫早産」と診断され、なるべく安静にして過ごさねばならなくなり、どんどん自分の思うように生活できなくなっていきました。
そんな中でも、おなかの子は着々と成長していました。
「赤ちゃんの聴覚は発達し、既に外の音が聞こえるようになっています」 という時期に突入したとき、外の音が聞こえているなら何か読み聞かせをしてあげようと思い、本棚から詩集を取り出し、声に出して読みました。
そこで再びこの詩の「完璧をめざさないほうがいい」を読みながら、気持ちが楽になっていくのを感じました。
妊娠してからというもの、おなかの子からは教わることばかりです。この詩に再び出合い、考え方を見直せたのも、 この子のおかげだと思っています。
学生のとき、ある教授がおっしゃった 「『子育て』は、『子育てられ』でもある」が、既に始まっているようです。
鳥馬

しっくりくる言葉

2016-09-20
子供の頃の一時期、私は本を読めなかった。
児童書を読むにはひねくれていたし、一般向けの書籍は内容以前の問題でつまずいてしまった。
「生れる」とか「聞える」とか、あるいは「訊ねる」「歎く」、「奇蹟」「蒐集」
――そのときの私から読書の楽しみを奪っていたものは、こういう学校で習わない表記だった。学校で習ったことが唯一無二の正しさだった私は、見慣れない送り仮名や漢字がひたすらむずがゆかった。この頃の読書体験は、だから、驚くほど貧弱だ。
そんなのんきな懊悩を抱えて数年たった頃、国語の先生だったか友達だったかに、慣れ親しんだ「現われる」という送り仮名が“誤り”だと知らされた。
重大な過ちにショックを受けつつも、私は、「現われる」と書くほうが「現れる」と書くよりもしっくりくるのに、と思った。
“しっくりくる”。ふと思い至ったこの言葉に、私は今までの屈託がすっと消えていく気がした。
表記は価値観であり、美的感覚だということを突然了解したのだ。

“誤り”だと思っていたから読めなかった。その人の「歎」の形をした「なげき」を、その感覚のまま味わえばよいのだ。
「きこえる」ものはその筆者にとって三文字でしかありえないし、その作者の「きせき」には「蹟」のような整然と横線が並んだ字がふさわしい。
――この発見のおかげかどうかはわからないが、私は今、本を読むことができる。
(付言するなら、実は「現われる」という書き方も誤りというわけではない、ということを最近になって知った。)

大人になって、例えば、「希薄」の「希」は「稀」の代用であることを知った。
どちらを使ってもいいのであれば、やはり「稀薄」か「希薄」かの選択には、書き手の言葉に対する感覚が反映されていそうだ。たとえ「稀」という字を知らなくて「希薄」と書いているだけでも、それはそれで、その人の今までの言語体験が反映されているのだろう。
「稀薄」という表記をする人は、「本来の形」にこだわる人なのか、それとも「希」に「うすい」という意味を持たせたくない人なのか、あるいは「稀」という字の形が好きな人なのか。
「希薄」を用いる人は、読みやすさを考えて難しい字を使わないようにしたのか、手書きだから画数が多い字を書きたくなかったのか、「のぎへん」が嫌いなのか。

今の私は漢字の運営能力をかなり機械にゆだねてしまった。今さら手書きの生活に戻ることはできないだろう。それは少し寂しいことではあるけれど、仕事をするにしても、友人と休日の予定を決めるにしても、ケータイ、スマホ、PCを使わないと始まらない。
だから、せめてこういう文章を書くときくらい、「たてもの」を「建て物」と書かないのはなぜだろうとか、「寂しい」と「淋しい」の違いは何だろうとか、そういうのんきな懊悩を抱いていたいと思っている。
君が聴く歌の歌詞には「泪」って書いてあるから僕もそう書く
瓜角

夏の匂い

2016-08-03
ものぐさな母は空になったジュースのペットボトルを麦茶の容器として使っていた。だから、私にとって、麦茶はオレンジジュースやスポーツドリンクや炭酸飲料の匂いがするものだった。
本物の麦茶を知っている今となっては、その複雑な風味が本来のものとは違うのだとわかるけれども、子供の頃の私にとっては、あれこそが麦茶だったから、おいしいもおいしくないもない。
プールや海で遊んだ後にふやけた指を気にしながらがぶ飲みした夏の思い出は、そんな匂いとともにある。

潮の匂い、塩素の匂い、夕立の土の匂い、花火の火薬の匂い、蚊取線香の匂い。――そういうものがいちいち思い出と結びついていて、夏という季節は暑いくせに嫌いになれない。
海、すいか、ラムネ、入道雲、日焼け跡。 神社、木陰、蝉時雨、とうもろこし、肝試し。祖母が畑で育てたすいかはあまりおいしくなかったし、たかが小学生の演じるおばけは怖がりの私でも怖くなかったが、大叔父が捕まえて持ってきてくれるカブトムシは最高に格好良かったし、隣家の庭で行われるバーベキューは子供の私には夏の一大イベントだった。
夏の記憶は匂いとともに思い出す。しかし、匂いを言葉では伝えられない。
相手が同じ匂いを想起できるかどうかは、相手の経験次第だ。
逆も然り、相手の言葉や文章をどこまで理解できるかは、もちろん、基本的な読解能力は前提となるが、自分の経験によるところが大きい。
「学校では教えてくれない大切なこと」という食傷気味の台詞が意味しているところはこういうことではないだろうか。

自分の経験の豊かさによって、相手をどれだけ深く理解できるかが左右される。それは、もしかしたら「優しさ」とも関係しているかもしれない。
匂いの記憶のバリエーションがその人の優しさだといったら、いい過ぎだと笑われるだろうか。
浴衣着てラムネを上手に飲む父が誰よりすごい人だった夜
瓜角

しちがつの備忘録

2016-07-20
「七月(しちがつ)」を「ヒチガツ」だと思っていたのはいつまでだったかと考えてみると、案外思い出せない。
最近まで勘違いしていたような気もするし、「七」という漢字を習った小学一年のときには既に知っていたような気もする。
「みあげ」とタイプして、「土産」と変換されないことに腹を立て、「このポンコツPC!」と憤っていたのは、今思い出しても恥ずかしい。

小中学生向けの教材を編集・校正していると、ときどき思いも寄らないことを忘れていたことに気づく。「八つ」か「八っつ」か。「損なう」か「損う」か。
――挙げればきりがないが、確実に学校で習ったはずのことを、私たちは往々にして忘れている。
確かに、「しちがつ」か「ひちがつ」かわからなくても「7月」とタイプしてしまえば悩む必要はないし、「損なう」でも「損う」でも、私たちは読むことができる。
しかし、底抜けに正しかった頃の景色を忘れることは寂しいことだ。
だから、これは備忘録だ。忘れても差し障りはないけれど、忘れると寂しいことを取っておくための場所。
そういうスペースをどこかに作ろうと思った。
そこにしまわれるのは、国語(日本語)のことであるかもしれないし、会社での一場面、日々の雑感でもあることだろう。
教材の編集・校正という私たちの仕事は、忘却に直面する仕事だ。忘れていたということを思い出してしまう。
だから、せっかく思い出したことをもう一度ここに記していこうと思う。ふるさとに沈む夕日の写真を丁寧に撮り直すように。

――こんなことを書くと、いかにも後ろ向きで陰気なことを始めるものだと呆れられるかもしれない。しかし、そもそも過去の助動詞「けり」で詠嘆し、「See you!」「再見!」「Au revoir!」ではなく 「さようなら」とわざわざ昔を振り返りながら別れてきた私たちには、こういう備忘録を素敵だと思う素養が備わっていると思うのだが、いかがだろうか。
友達と海で遊んだ帰り、「ベタベタ」と「ヒリヒリ」を携えて、サドルがぬれないようにお尻を浮かせて自転車を漕いだ――あの日の夕日は、 忘れるにはあまりに美しすぎないだろうか。
そうめんを食べたら腕の皮をむく 脱皮みたいでかっこよかった
瓜角
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