心に残る名文
第17回 有島武郎『小さき者へ』1918(大正7)年
2017-06-16

日々の凄惨なニュースを見ていると、「子供を愛していない親なんていない」という使い古された言葉はどうやら真理ではないらしいということが、私にもなんとなく理解できてきた。それは、決して納得したくない事実ではあるが、しかし、だからこそ、我が子を思う親の愛情の尊さに胸を打たれることもある。
白樺派の中心的人物の一人だった有島武郎は、1916(大正5)年、最愛の妻・安子を肺結核で亡くした。残されたのは、三人の幼い息子たち。この子たちはこれから母なしで生きていかなければならない。
そんな子供たちを勇気づけるために書いたのが「小さき者へ」だと言われている。
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映るか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤い憐れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちの為めにそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固なのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。
(『小さき者へ・生れ出ずる悩み』新潮文庫)
私の父は、武郎ほどあからさまに愛情深い人ではなかった。朝早く夜遅い人だったから、平日は顔を合わせることすらまれだった。そのうえ、休日も家でひたすら寝ていたから、思い出らしい思い出もそれほど多くない。
普段無口なくせに、大好きなプロ野球の観戦にいくと、外野席でわあわあと騒いでいた。
いつもはいくら駄々をこねても何も買ってくれないのに、たまに二人で釣りに行くと、妹たちに内緒でアイスを買ってくれた。
「おまえはお父さんとお母さんが海で遊んでいるときに、沖から流れてきたんだよ」とわけのわからないことを言って、私を怖がらせた。
――私の父もなかなかだと思う。
一方、武郎は『小さき者へ』を書いた数年後、十歳前後の息子たちを残して人妻と心中した。
さんざん、「おまえたちはこんなふうに生まれたんだよ。愛しているよ」みたいなことを書いておきながら、最終的には、男女の愛におぼれて、父としての自分を捨てた。
作品の価値は作者から独立していると思うが、どうしてもがっかりはしてしまう。
これでは、私の父の方がよっぽど立派だ。
――このくらいまで考えて、「有島武郎よりも私の父の方が立派だ」というのは、悪くない感想だと思った。
そうか、私の父は立派らしい。
話がそれてしまった。
武郎の父としての資質はさておき、作品は息子たちへの愛情にあふれている。
「お前たち」が生まれた日のエピソードから始まり、亡き妻がいかに「お前たち」を愛していたか、「私」がいかに「お前たち」を愛しているか――これからを生きる「お前たち」へのメッセージが、いかにも慈愛に満ちた言葉でつづられる。
よい文章を書いて、後世に残す――それは確かに、武郎にしかできない愛情表現だろう。
小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。
(同書)
まあ、私の父の方が立派なのだが。
瓜角
(肖像写真は国立国会図書館蔵)
