心に残る名文
第3回 国木田独歩『忘れえぬ人々』1898(明治31)年
国木田独歩は、とても流麗な文章を書く作家です。
高校の教科書で初めて読んだ『武蔵野』は、記憶に残る名文でした。その恩恵に浴して、『春の鳥』や『画の悲み』、『牛肉と馬鈴薯』などを読んで、独歩に少し近づいたかなと思ったのも遠い昔となりました。
独歩は37歳という若さで病没したため、作品は多くありませんが、きめ細かい情景描写が極めて上手な作家だと思います。特に、27歳のときに書かれた『忘れえぬ人々』は、いつ読んでも心に響くものがあります。
主人公の大津弁二郎は、作者と同年齢の無名の文学者です。ある日、多摩川沿いは溝口の旅人宿で、秋山という同年齢の無名画家に出会います。うら寂しい田舎の宿で話がはずみ、秋山は大津の書きかけの原稿『忘れ得ぬ人々』に妙に関心を示すので、大津は、眠れぬ夜の退屈まぎれに、原稿に書いてあるより詳しく鮮明に、それらの人々の話を秋山に語って聞かせるのでした。
その中の一つが、夕暮れの山道を、空車をつけた馬を引いて村に帰る若者の話です。
大津が弟と二人で、熊本から阿蘇を越えて大分まで横断したときのことです。日がとっぷりと暮れて、ようやくふもとの宮地の村に近づいたので、疲れた足を橋の欄干に休めながら、阿蘇のすさまじい噴煙の美しさに見とれていました。そして、一日の仕事を終えて、にぎわう村落の老若男女の声や、馬のいななきなどを聞くともなしに聞いていると、空車の音が虚空に響き渡って、しだいしだいに近づいてくるのに気がついたのです。
暫くすると朗々な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙を眺めたままで耳を傾けて、此の声の近づくのを待つともなしに待っていた。
人影が見えたと思うと「宮地やよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡を長く引いて丁度僕等の立っている橋の少し手前まで流して来た其の俗謡の意と悲壮な声とが甚麼に僕の情を動かしたろう。二十四五かと思われる屈強な壮漢が手綱を牽いて僕等の方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっと睇視めていた。夕月の光を背にしていたから其の横顔も明毫とは知れなかったが其の逞しげな体躯の黒い輪廓が今も僕の目の底に残っている。
僕は壮漢の後ろ影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。「忘れ得ぬ人々」の一人は則ち此の壮漢である。
(『底本 国木田独歩全集第二巻』学習研究社 ルビは引用者による)
この壮観さは、どうでしょう。
明るく澄んだよく通る声、荷物の乗っていない車の軽快な音、そして、馬のひづめの悠長な響き、それらがだんだん近づいてくると、流して歩くその声の主は屈強な壮漢であることがわかりました。
その姿と凛々しいまでに澄んだ声から、壮漢が如何に日々の生活にひるまず、たくましく生きているかということが伝わってきて、主人公の情を強く動かしたわけです。
阿蘇山のふもとのたくましい壮漢の黒い輪郭が、一枚の絵のように「今も僕の目の底に残っている」のは、単に美しい風景の中に融け込んだだけの壮漢ではなく、悲壮な声で歌を流して歩きながら颯爽としているその姿に、身が引き締まるような感動を覚えたからにほかなりません。
阿蘇山とそこから上る噴煙の雄大さに見とれているうちに、歩き通して疲れている主人公の心持ちとがあいまって、この壮漢にすっかり魅入られてしまった様子が、如実に語られていてすばらしいと思います。
すなわち、これが、私の「忘れ得ぬ名場面」の一つです。
清し女
(肖像写真は国立国会図書館蔵)