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スタッフblog「季の風」

しっくりくる言葉

2016-09-20
子供の頃の一時期、私は本を読めなかった。
児童書を読むにはひねくれていたし、一般向けの書籍は内容以前の問題でつまずいてしまった。
「生れる」とか「聞える」とか、あるいは「訊ねる」「歎く」、「奇蹟」「蒐集」
――そのときの私から読書の楽しみを奪っていたものは、こういう学校で習わない表記だった。学校で習ったことが唯一無二の正しさだった私は、見慣れない送り仮名や漢字がひたすらむずがゆかった。この頃の読書体験は、だから、驚くほど貧弱だ。
そんなのんきな懊悩を抱えて数年たった頃、国語の先生だったか友達だったかに、慣れ親しんだ「現われる」という送り仮名が“誤り”だと知らされた。
重大な過ちにショックを受けつつも、私は、「現われる」と書くほうが「現れる」と書くよりもしっくりくるのに、と思った。
“しっくりくる”。ふと思い至ったこの言葉に、私は今までの屈託がすっと消えていく気がした。
表記は価値観であり、美的感覚だということを突然了解したのだ。

“誤り”だと思っていたから読めなかった。その人の「歎」の形をした「なげき」を、その感覚のまま味わえばよいのだ。
「きこえる」ものはその筆者にとって三文字でしかありえないし、その作者の「きせき」には「蹟」のような整然と横線が並んだ字がふさわしい。
――この発見のおかげかどうかはわからないが、私は今、本を読むことができる。
(付言するなら、実は「現われる」という書き方も誤りというわけではない、ということを最近になって知った。)

大人になって、例えば、「希薄」の「希」は「稀」の代用であることを知った。
どちらを使ってもいいのであれば、やはり「稀薄」か「希薄」かの選択には、書き手の言葉に対する感覚が反映されていそうだ。たとえ「稀」という字を知らなくて「希薄」と書いているだけでも、それはそれで、その人の今までの言語体験が反映されているのだろう。
「稀薄」という表記をする人は、「本来の形」にこだわる人なのか、それとも「希」に「うすい」という意味を持たせたくない人なのか、あるいは「稀」という字の形が好きな人なのか。
「希薄」を用いる人は、読みやすさを考えて難しい字を使わないようにしたのか、手書きだから画数が多い字を書きたくなかったのか、「のぎへん」が嫌いなのか。

今の私は漢字の運営能力をかなり機械にゆだねてしまった。今さら手書きの生活に戻ることはできないだろう。それは少し寂しいことではあるけれど、仕事をするにしても、友人と休日の予定を決めるにしても、ケータイ、スマホ、PCを使わないと始まらない。
だから、せめてこういう文章を書くときくらい、「たてもの」を「建て物」と書かないのはなぜだろうとか、「寂しい」と「淋しい」の違いは何だろうとか、そういうのんきな懊悩を抱いていたいと思っている。
君が聴く歌の歌詞には「泪」って書いてあるから僕もそう書く
瓜角
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