スタッフblog「季の風」
寂しい言葉
2017-01-25
年末年始は毎年帰省することにしている。新幹線のほうが飛行機よりも風流だと思っているから、毎回長旅をして帰る。本当は鈍行とか寝台列車のほうがオツなのだろうが、そこまで時間をかけるのは飽きっぽい私にはできなそうだ。
途中大阪で降りる。友人もいるし、何より5時間も新幹線に乗っていては尻が痛くなる。私はビジネスホテルの部屋に荷物を置いて、こわばった体を伸ばすと、大阪に住む友人と街へ繰り出す。都会の街並みなど、日本全国あまり代わり映えしないものだが、周りから大阪の言葉が聞こえてくると、「大阪に来たんだな」という感慨が湧いてくる。
大阪の言葉でいう「よう……せん」の「よう」は、漢文でよく出てくる「能く」だろうか、などと考える暇もなく、友人との楽しい会食は進み、夜が更けていく。
大阪には住んだこともないのに、つい周りの言葉につられてイントネーションが変になってしまうのをおかしく思いながら、そのうち、友人が息をしているだけでおもしろくなる。
友人はいつまでも友人だからおもしろい。
翌日、昼くらいの新幹線でさらに西へ向かう。新幹線から降り、在来線を乗り継いで、結局実家に着くのは夕方だ。とにかく、ここぞとばかりにごろごろしながら過ごす。
我が家では毎年1月2日に親戚が集結する。
正月にしか会わない大叔父・大叔母たちにひととおりからかわれながら、空の一升瓶を増やしていく。
そういえば、最近、地元に帰ったときに、方言が聞き取れなくなってきた。実際、もし大叔父たちの会話がテレビで放送されるとしたら、十中八九字幕がつくだろう。言葉を忘れたわけではないが、自分でもなぜ聞き取れないのかわからない。
上京して10年を超えた。あと数年で、実家で過ごした年月を上京してからの年月が超してしまう。
言葉は自分が生きている場所を強く意識させる。聞き慣れない言葉は私をわくわくさせ、耳慣れた言葉は私に“居場所”を思い出させる。しかし、慣れ親しんだ言葉が聞き慣れない言葉になっていくとき、私のなかに言い知れぬ“寂しさ”が生まれる。
私は「帰り」の新幹線のなかで、室生犀星の「小景異情」を思い出したが、ちょっと違うかと思い直した。
東京の言葉はいつもしたたかに冷たい笑顔ですり抜けていく
瓜角