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心に残る名文

第25回 坂口安吾『風博士』

2019-05-13
 初めて記事を書きます。挨拶として、坂口安吾『風博士』の最後の2文を紹介します。大学の授業で扱われたそれは私を驚愕させ、授業への集中を奪ってしまいました。その衝撃を伝えるため、まずは『風博士』のあらすじの紹介から。
 
 この物語の語り手は風博士と呼ばれる先生の弟子である「僕」です。「僕」は、風博士が自殺し、その件について警察にあらぬ疑いをかけられていると言います。しかもその自殺には(たこ)博士という人物が深く関わっているらしく、とにかく風博士の遺書を見て欲しいと読者に語りかけます。それはまあ図々しい語り口で。
 風博士の遺書には、ただひたすら蛸博士への悪口がしたためられていました。蛸博士は髪の毛が薄いとか、自分(風博士)が踏んづけて転んだバナナの皮は蛸博士が置いたに違いないとか、自分の妻を奪ったのは蛸博士だとか、自分の方が彼よりかっこいいだとか。そして、風博士は蛸博士を困らせようと(かつら)を盗んだようなのです。しかし、蛸博士は別の鬘をかぶって現れ、それにショックを受けた風博士は自殺を決意したとのことでした。
 遺書が終わり、弟子は風博士の決定的な最期について読者に教えてくれます(相変わらずの図々しさで)。博士は書斎で風になって消えたと言うのです。だからもう姿はないと。
 
 語り手の「僕」、風博士、蛸博士等が登場しますが、私たちは誰のことも信用できません。「ずっと何を言っているんだ」という状況です。バナナの皮で人は転ぶのでしょうか。そもそも風博士は人間なのでしょうか。何も分かりません。私たちが分かるのは「僕」も風博士も必死であること、くらいです。
 
 
そんなこんなで、最後の2文にたどり着きます。たどり着いてしまうのです。弟子である「僕」が風博士の死について、最後に一つ言い残します。
 

それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加えよう。この日、かの憎むべき蛸博士は、あたかもこの同じ瞬間において、インフルエンザに犯されたのである。
「坂口安吾全集1」ちくま文庫

 
 なんと「風」と「風邪」をかけた洒落でこの物語が締めくくられてしまいました。しかし騙されてはいけません。風博士が死んだ日に、蛸博士がインフルエンザになったことは何も「科学的」ではないのです。結局誰も信用できないまま、終わったようで何も終わっていないのです。騙されるところでした。突風で知らないところに連れていかれたようなこの読後感を私は忘れることができません。
 
 安吾はファルス(笑劇)を愛していました。きっと考えてはいけないのです。風博士が何の比喩であるか、この物語は何なのか、考え始めたらそれこそ安吾に笑われる気がします。
小獺
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