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心に残る名文

第22回 勝海舟『氷川清話』「西郷と江戸開城談判」

2018-06-06
 今年2018年は明治維新から150年。
 NHKの大河ドラマでは、「西郷どん」こと、西郷隆盛が主人公ですね。
 私は、2010年の「龍馬伝」を最後に、大河ドラマを見なくなってしまったので、今年の「西郷どん」が、どんな活躍ぶりを見せているのかわかりませんが、西郷隆盛というと、なぜか江戸無血開城を連想します。
 これまた大河ドラマで申し訳ありませんが、遠い昔、私が高校生だったころ、「勝海舟」を放映していました。そのドラマで初めて幕末動乱のすさまじさを知り、勝海舟をはじめとする多くの人物の名前を覚えた記憶があります。
 その中で、勝海舟と西郷隆盛が、たった二人で江戸開城談判をおこなったということが非常に印象に残ったものでした。
 
 『氷川清話』は、海舟が晩年に語った人物評や時局批判の数々を盛り込んだもので、その語り口調は豪快で人間臭く、海舟の懐の広さや人物の大きさを感じさせてくれる、魅力的で痛快な一冊です。
 怖いもの知らずで、辛辣な批判が多く、めったに人を褒めることをしない中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井しょうなんと西郷隆盛だ」と、手放しで恐れをなしているのですから、西郷隆盛という人は、やはりどでかい人物だったのでしょうね。横井小楠は、肥後出身の儒学者です。
 この江戸城を明け渡す談判は、1868年3月13日と14日に行われたもので、幕府側の要人であった海舟が、官軍側の西郷隆盛を、どのように見ていたかということがよくわかります。
 

 
 西郷なんぞは、どの位ふとつ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
 あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、はなしはとてもまとまらなかっただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る、板橋からはなどが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼においた。
(中略)
 当日おれは、羽織袴で馬にって、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。
 さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいふ事は、どうちゃくだとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々にとんしゅうして居るのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろやかましく責め立てるに違ひない。万一さうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。
 この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子をうかがつて居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送った。
(中略)
 この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかつた事だ。
(『氷川清話』講談社学術文庫)
 

 
 ここに至るまでの道筋には、幕府側、官軍側それぞれ多くの策略や駆け引きが張り巡らされていたことと思います。しかし、円満に収まった最たる要因は、何といっても最後の大一番! 勝負をかけて取引に出てきた二人の役者が、超一流だったということなのでしょう。
 江戸が戦火にまみれず、一滴の血も流れずに、一件落着したのですから。
すが
(肖像写真は国立国会図書館蔵)
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