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スタッフblog「季の風」

なまじ世界は霧の中

2016-11-29
 2、3年前のことだったと思うのだが、私は生まれて初めて「なまじ」という言葉を日常会話のなかで使った。どんな会話だったかはもう覚えていないが、「なまじ俺がイケメンだから厄災が続くのだ」というような内容だったのではなかろうか。
 
「なまじ」という言葉自体を知ったのは、中学生の頃くらいだと思う。当時の私はずいぶん律儀に本を読んでいたから、知らない言葉があると必ず国語辞典を引っ張り出した。
おもんぱかる」「そんたく」「すい」「のべつ幕なし」「のっぴきならない」――当時の習慣は私に多くの語彙をもたらしてくれたが、しかし、国語辞典を何度読んでも全く頭に入ってきてくれない言葉もあった。
「なかんずく」「よしんば」「あまつさえ」「よもや」――国語辞典がどれほど親切に教えてくれても、なぜか頭に入ってこない。
 最も意味がわからなかったのが「なまじ」だった。頭のなかには、どうしても「なまず」に似たヌルヌルしたものが浮かんで、どんなにつかもうとしてもスルッと逃げてしまう。なんともふてぶてしい言葉だと思った。
 しかし、上京して初めて私の前に「なまじ」を使える人が現れた。そして、その後もしばしば生「なまじ」を聞く機会に恵まれた私は、「なまじ」の意味と、なぜ国語辞典を読んでもわからなかったのかがだんだんわかるようになってきた。
 
「なまじ」はニュアンスなのだ。他の言葉と違って、気持ちの傾きというか揺れというか、そういう微妙なものを伝える語なのだ。だから、それがどれくらい傾いているのか、実際にその言葉が使われている場面に遭遇しないと実感できない。
 使うとなると、さらにたくさんの「なまじ」が必要だ。「なまじ」を使うべき場面に数多く遭遇することで、「なまじ」的な事象を認識できるようになり、「なまじ」でしか表現できない機微があるということに気づく。
 
 言葉は常住坐臥変化していて、平安時代の文章はもちろん、百年くらい前に書かれた文章ですら、慣れていないと読みにくい。上に挙げた言葉が現在、あまり使われなくなったということも事実だろう。現に私もなかなか使えない。
 しかし、「分かつ」ことが「分かる」ことであるならば、ある言葉を使えるようになるということは、世界―ーというより、私の感情? ーーを裁断することになるだろう。それは、初めて眼鏡をかけたときの感動に似ているかもしれないし、「ここが赤身でここが中トロ」と威勢よく教えてくれるマグロの解体ショーの興奮に似ているかもしれない。
 ということは、使える語彙が少ないことの意味は、「若者の活字離れ」が云々とか「国語力の低下」が云々とかいう文化的・社会的な問題というよりも、むしろその人が「世界を分かたずに生きなければならない」という個人的な問題なのではないか、と最近思っている。
 個人的な問題の集積が社会的な問題なのだろうが。
 
  晦渋な言葉で鎧う怪獣を見透かすような彼女の懐柔
瓜角
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君(与謝野晶子『みだれ髪』)
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