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スタッフblog「季の風」

蠢く

2018-04-04
 すっかり春だ。
 この「すっかり」は「春」という体言を修飾している副詞だ。副詞の説明に「主に用言を修飾する」と書いてあるのは、このように体言を修飾することもあるからだ。
 ――そんなことはどうでもいい。春なのだ。そんな些末なことにかかずらっている暇はない。
 春は全力疾走で駆け抜けていく。既に盛りは過ぎて、見る見るうちに遠ざかっていく。
 
 春は不思議な季節だ。
 今年はたまたま快晴が多かったが、「花曇り」という言葉が示すように、春は曇りが多い。それなのに、私たちの春のイメージは「晴れ」だ。暖かい気候や草花の芽吹く光景が、明るい印象を作っているのだろうか。
 一方、春には「妖しさ」「憂い」もある。与謝野晶子の有名な短歌を引用してみる。
 

 
  清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふひとみなうつくしき
(与謝野晶子『みだれ髪』)
 

 
 暖かさと肌寒さが入り混じった春の夜。月に照らされた桜の意外なほどの明るさ。暗さで人の顔が曖昧で、すれ違う瞬間にその鮮烈さにハッとする。夢と現実の境目がおぼろげになって、清水へ祇園をよぎっている女性に誘われて、読者である私はきつねに化かされたように春の夜に埋没していく。
 一般的には「幻想的」というのかもしれないが、使い古されたこの言葉には「きれい」くらいの意味しかないから、「妖しい」という言葉を使いたい。人ならざる世界の気配というといいすぎかもしれないが、春の夜には「狂気」に似た混濁がある。
 もうひとつ、三好達治の詩を引く。
 

 
  いしのうへ
 
  あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音あしおと空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺のいらかみどりにうるほひ
  廂々ひさしびさし
  ふうたくのすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ
(三好達治『測量船』)
 

 
 明るい春の日。桜の花びらが舞うなか、少女たちが上品に語らっている。彼女たちが石畳を行く足音は静かな寺に響き、少女たちはふと目線を上げて、人生の春を謳歌するように明るい寺を歩いていく。それを見ていた人の目線は少女たちから寺の屋根、廂と移り、最終的にはふいに憂いが到来する。明るく美しい光景を眺めながら、突然憂愁にとらわれるのは、春の混濁に埋没しきれない自分のせいなのか、あるいは春そのもののせいなのか。
 
 春は曇っていることが多いし、「妖しい」し、「憂い」も含んでいる。それなのに、私たちは春が大好きだ。桜のつぼみにやきもきし、爛漫の花の下で宴会をして、散る花で寂しくなり、葉桜に命の萌芽を感じる。春にはあらゆる感情が濃縮されていて、そしてどの感情も、春は許してくれるのだ。そこが春の器量の大きさであり、春の不思議さの正体なのだろうと思う。
 
  おい桜もう一度だけ咲いてくれ おまえの下で酒を飲むから
瓜角
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