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心に残る名文

 
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第14回 島崎藤村「藤村随筆集」
2017-03-13
 島崎藤村の随筆集の中に、音読について書かれた名文があります。
 音読は、黙読より脳を刺激するので、脳トレになるらしいくらいに思っていました。しかし、音読や朗読をすることは、もっと奥が深いのだということを、教えてくれています。
 

かんむつあんこう寒比目魚かんびらめなぞをかつぎながら、毎日大森の方から来てわたしの家の前に荷をおろす年若なさかながある。冬の魚を売って行く。その後には何かしら威勢のいい、勇みなものが残る。こうした肴屋の声にかぎらず、いろいろな物売の声には、機械を通じて伝わって来る響にないものがある。町を呼んで通り過ぎる花屋の声のすずしさ、かんべにうりのやさしさ、竿さおだけうりのおもしろさ。あたりの空気をやわらげたり引き立てたりするものは、どうしても陰影の多い人の声にかぎるようだ。
 
 ずっと以前にはわたしたちもよく声を出したものだ。少年時代に四書五経の素読から始めたわたしなぞは、声を出して読書することを楽しみに思ったばかりでなく、それを聴くことをも楽しみに思った。わたしたちの出す声は随分無茶で書生流儀のものではあったが、いくら叫んでも叫び足りなかったように、わたしたちの胸からほとばしり出るものが、いろいろな試みともなったのである。
 
 どうも、この節は声を出すということが、どの方面にも少なくなったような気がする。どっちを向いて見ても、鳴りを潜めて、沈まり返っているような気がする。物をいえば口唇が寒いのか。吹き狂う世紀のつめたい風がこんなに人を沈黙させるのか。
 
 書物に対してすら、今の私たちは音読の習慣を失うようになった。黙読、黙読だ。これは自分らのような年頃のものばかりでないと見えて、町を歩き廻ってもめったに若々しい読書の声をきかない。
「寝物語」1936(昭和11)年
 
 すぐれた人の書いた好い文章は、それを黙読がんするばかりでなく、時には心ゆくばかり声をあげて読んで見たい。われわれはあまりに黙読に慣れすぎた。文章を音読することは、愛なくては叶わぬことだ。
「初学者のために」1922(大正11)年
(『藤村随筆集』岩波文庫)
 

 
「愛なくては叶わぬことだ」と言い切るところは、すごいと思います。愛情を込めて読むとか、無心になって読むとか、そういうことでしょうか。難しい一文です。
 
 最近、小学校の国語の授業で音読する様子を久しぶりに参観し、真剣な子どもの声とは張りがあっていいものだなと、しみじみ思いました。
 また、ある中学校の先生の実践報告に、古典をもっと好きになってほしいということから、「平家物語」屋島の合戦を音読教材にしたということが書かれています。役割を決めて各パートに分かれ、台詞を暗唱して群読するのだそうです。最終的には、130人ほどの生徒が文化祭で、学年群読「平家物語」を発表するというのですから、その並々ならぬ指導もさることながら、生徒たちの根気と気力には目を見張るものがあります。きっとこの生徒たちは、音読の楽しさを体で覚えたことでしょうね。
 
 2001年に発売された齋藤孝先生の『声に出して読みたい日本語』(草思社)がベストセラーになってから、17年になります。仕事に必要で続編併せて4冊購入し、座右の書のようになっていますが、そこには、「いま、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している。かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた」と、書かれてあります。藤村と全く同じことを嘆いていることに、とても興味をもちました。
 齋藤先生は、「歴史のなかで吟味され生き抜いてきた名文、名文句」を朗誦することによって、「その文章やセリフをつくった人の身体のリズムやテンポを、私たちは自分の身体で味わうことができる」、そしてまた、「世代や時代を超えた身体と身体とのあいだの文化の伝承が、こうした暗誦・朗誦を通しておこなわれる」と、言っています。
 
 文豪藤村から、また、現代の大学教授から、声を出して名文を読むことの大切さを教えられた気がします。
すが
(肖像写真は国立国会図書館蔵)
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