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スタッフblog「季の風」

   
 
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「間違いではない」「伝わりやすい」漢字を身につけるために
2017-01-10
日頃から、世の中の「国語」に関することに敏感です(過敏ともいえます……)。
それで、最近は、「間違いではない」漢字を書くことと「伝わりやすい」漢字を書くことについて考えています。
 
「間違いではない」漢字を強く意識し始めたきっかけは、文化庁の文化審議会国語分科会が2016年2月29日に取りまとめた「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」です。
これは、印刷文字や手書き文字について、指針内に示された字形やその考え方の限りでは、当該漢字は誤りではない(表現の差である)ということを示したものです。
漢字の「とめ・はね・はらい」などについて、その有無は多くの場合には漢字の正誤基準に関わりがないということを指針では述べています。
この指針の考え方は常用漢字表で既に記載されていましたが、広く周知を図るために、豊富な具体例を挙げて発表されました。
 
なるほど、「とめ・はね・はらい」などは、「間違いではない」漢字を採点する際の基準ではないのですね。
指針の考え方は、しっかりと周知させていくことが大事だと思います。
 
それを理解したうえで、それでは、「とめ・はね・はらい」などは、何のためにあるのでしょうか?
そのことを考えているうちに、「伝わりやすい」漢字という概念がズズズズっと浮かんできました。
 
「とめ・はね・はらい」、「線の長短」などが整っている漢字は、「美しい」「望ましい」「より良い」そして「伝わりやすい」字形の漢字であると考えます。
この「伝わりやすい」というのは、「間違いではない」漢字の基準である「その漢字であると間違いなく伝わるかどうか」だけでなく、「その漢字が読みやすく、ストレスなく伝わるかどうか」ということです。
「間違いではない」漢字基準をクリアしたうえで、「伝わりやすい」漢字を目指す、といったところでしょうか。
実際に漢字を書く場面を考えてみると、「間違いではないか」だけでなく「伝わりやすさ」を意識しながら書くことで、相手とのコミュニケーションをより円滑に行うことができるのではないかなと思います。
 
さて、今回の指針を意識することで、漢字を学ぶ際の2段階の目標が見えてきました。
1段階目が「間違いではない」漢字を学ぶこと、2段階目がなるべく「伝わりやすい」漢字にしていくことです。
もちろん、漢字習得の際は「間違いではない」ことが最重要ですので、評価の際は、こちらを重視します。
そのうえで、相手意識・目的意識を持って文章を書くために、「伝わりやすさ」を努力目標としていくこと、これが2段階の考え方です。
私は、指針の考え方を受けて、この2つの目標があることをもうちょっと意識した漢字学習があってもいいんじゃないかなと思っています(すみません、長々と書いてきましたが、ここからが主張です)。
 
例えば、漢字ドリルなどで新出漢字を覚える際は、まず教科書体の漢字を見せて、「伝わりやすい」漢字を目指すための「とめ・はね・はらい」などのポイントを示します。
そして、「伝わりやすい」漢字の例示を見ながら漢字を書く学習をした後、漢字の書き取り問題の前に「間違いではない」漢字を目指すための、当該漢字を構成するための重要ポイントを示すというのはどうでしょうか。
 
具体的に、「風」という漢字で考えると、
●「伝わりやすい」ポイント……1画目をはらう、2画目をはねる、9画目をとめる、など

伝わりやすい「風」の字

 
●「間違いではない」ポイント……4画目を忘れない、など

間違いではない「風」の字

 
としてみるのはいかがでしょうか。
「間違いではない」こと、そして「伝わりやすい」こと。
この2段階で漢字学習を考えることで、漢字の正誤判断や相手意識・目的意識がすっきりしてくるのではないかな、と感じています。
寒海
【参考】
 
美しい字
2016-12-27
今年の漢字は「金」らしい。
その如何について云々するつもりはないが、私は「金」という字が苦手だ。いや、moneyもgoldも結構好きなのだが、「金」という漢字は上手に書けないから、あまり好きではない。
 そういう字がいくつかある。難しい字ではないのだが、上手に書けない。私の場合、「事」、「区」、「を」、「く」あたりは、どうも納得のいく字が書けない。
 逆に、特に練習したわけでもないのに、いい具合に書ける字もある。私の「解」と「ら」はなかなかのものだと自負している。
 
 昔から字を書くことは好きだった。というよりも、漢字が好きだった。漢字辞典を眺めながら、友人が読めなさそうな漢字や熟字訓を探すのが好きだった。学校で友人に出題するために字形を覚えた。「顰蹙(ひんしゅく)」を書けるようになったときは、かなり興奮した。
 嫌な子供だったと我ながら思うところだが、漢字辞典を愛読書にしていたおかげか、字を褒められることはしばしばあった。得したこともある。損したことは、学生時代に友人から「今日までに提出するように言われていたプリントを親に見せるのを忘れたから、親の代わりに署名してくれ」とよく悪事の片棒を担がされそうになっていたことくらいだろうか。
 
 美しい字を書くことが美徳である国が世界にどれほどあるかは知らないが、私は悪くない文化だと思っている。
 字を書くのが苦手な人からしたら、人格や努力とは無関係なところで自分が断定されてしまう制度は不条理であるに違いないし、私も字の(丁寧さではなく)美醜でその人を判断することはやりすぎだと思うのだが、美しい字自体というよりも美しい字を書こうとすることには、それなりの意義があると思うのだ。
 美しい字を書こうとする意識は、最も日常的な能動的純粋さだと思う。字を丁寧に書こうとするとき、私たちは、山積している仕事だとか溜まった洗濯物だとかそろそろ牛乳の賞味期限が切れることだとか、そういう重大な雑事を頭の中から一旦自ら捨て去って字に向かう。あらゆることをシャットアウトして、今書こうとする字のハネのことを全力で考える。その時間はきっと、いちばん簡単な純粋さを含んでいる。
 例えば、同じ純粋な時間でも、読書だといつもうまく雑事を忘れられるとは限らない。忙しければ忙しいほど、読書の純粋さは私をさらってくれない。一行読むたびに思考は小説の中から明日の仕事のことへ飛び立ってしまい、上手に読書できない自分に嫌気が差してくる。読書には私事をはぎ取ってくれるほどの強制力はない。
 しかし美しい字を書こうとすることは、自ら私事を捨て去ることだから、強制力が云々ではない。場合によっては読書よりも簡単に、頭をさっぱりすることができるのだ。
 どんどん加速していく現代的時間の中で、自ら純粋になるこういう一瞬が、本当はかなりの人に必要なのではないかと思っている。
 
  君ってさ案外かわいい字なんだね 意外というかなんだかウケる
瓜角
 
なまじ世界は霧の中
2016-11-29
 2、3年前のことだったと思うのだが、私は生まれて初めて「なまじ」という言葉を日常会話のなかで使った。どんな会話だったかはもう覚えていないが、「なまじ俺がイケメンだから厄災が続くのだ」というような内容だったのではなかろうか。
 
「なまじ」という言葉自体を知ったのは、中学生の頃くらいだと思う。当時の私はずいぶん律儀に本を読んでいたから、知らない言葉があると必ず国語辞典を引っ張り出した。
おもんぱかる」「そんたく」「すい」「のべつ幕なし」「のっぴきならない」――当時の習慣は私に多くの語彙をもたらしてくれたが、しかし、国語辞典を何度読んでも全く頭に入ってきてくれない言葉もあった。
「なかんずく」「よしんば」「あまつさえ」「よもや」――国語辞典がどれほど親切に教えてくれても、なぜか頭に入ってこない。
 最も意味がわからなかったのが「なまじ」だった。頭のなかには、どうしても「なまず」に似たヌルヌルしたものが浮かんで、どんなにつかもうとしてもスルッと逃げてしまう。なんともふてぶてしい言葉だと思った。
 しかし、上京して初めて私の前に「なまじ」を使える人が現れた。そして、その後もしばしば生「なまじ」を聞く機会に恵まれた私は、「なまじ」の意味と、なぜ国語辞典を読んでもわからなかったのかがだんだんわかるようになってきた。
 
「なまじ」はニュアンスなのだ。他の言葉と違って、気持ちの傾きというか揺れというか、そういう微妙なものを伝える語なのだ。だから、それがどれくらい傾いているのか、実際にその言葉が使われている場面に遭遇しないと実感できない。
 使うとなると、さらにたくさんの「なまじ」が必要だ。「なまじ」を使うべき場面に数多く遭遇することで、「なまじ」的な事象を認識できるようになり、「なまじ」でしか表現できない機微があるということに気づく。
 
 言葉は常住坐臥変化していて、平安時代の文章はもちろん、百年くらい前に書かれた文章ですら、慣れていないと読みにくい。上に挙げた言葉が現在、あまり使われなくなったということも事実だろう。現に私もなかなか使えない。
 しかし、「分かつ」ことが「分かる」ことであるならば、ある言葉を使えるようになるということは、世界―ーというより、私の感情? ーーを裁断することになるだろう。それは、初めて眼鏡をかけたときの感動に似ているかもしれないし、「ここが赤身でここが中トロ」と威勢よく教えてくれるマグロの解体ショーの興奮に似ているかもしれない。
 ということは、使える語彙が少ないことの意味は、「若者の活字離れ」が云々とか「国語力の低下」が云々とかいう文化的・社会的な問題というよりも、むしろその人が「世界を分かたずに生きなければならない」という個人的な問題なのではないか、と最近思っている。
 個人的な問題の集積が社会的な問題なのだろうが。
 
  晦渋な言葉で鎧う怪獣を見透かすような彼女の懐柔
瓜角
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君(与謝野晶子『みだれ髪』)
 
説明することの難しさ
2016-10-31

妊娠後期に入り、おなかの子に話しかける日々を過ごしています。

そのようなとき、私は大抵一人で二役を演じます。

「お出かけするよー。」

「はーい。どこ行くの?」

「いつも行っている近くのスーパーマーケットだよ。あ、雨降ってるね。」

「雨ってなーに?」

「雨っていうのは・・・空から水が降ってくることだよ。」

「水ってなーに? 空ってなーに?」

「えーとね・・・水は・・・ちゃぷちゃぷしているもので、

 空は上のほうにあるものだよ。」

といった感じなのですが、

まだ何も知らない、見たこともない人に何かを説明するのは

とても難しいことだと思いました。

ひとまず「雨」についてきちんと説明がしたかったので、

家に帰り「雨」を辞書で引いてみました。

 

まずは『広辞苑 第六版』岩波書店

①大気中の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって地上に落ちるもの。

もう一冊『新明解語辞典 第七版』三省堂

空間的・時間的にある範囲にわたって、空から水滴が降ってくる現象。

また、その水滴。

うーん・・・胎児には少々高度すぎましたね。

 

でも、言葉だけ知っていても実際のものと接したことがないと、

本当の意味で「知っている」ということにはならないのかもしれない

と思いました。

人は実際にそれを見たり、感じてたりしながら言葉と結び付けて、

そのものの名前を覚えていくのでしょうね。

なので、「なーに?」が続いてしまうときは

「生れてきてから教えてあげる!

 いろいろなもの見たり、いろいろな場所に行ったり、

 たくさんのことを一緒にしようね。」

と伝えることにしました。

鳥馬

 
恥の多いしりとり
2016-10-24
太宰の有名な作品ではないが、生きていくうえで恥ずかしい瞬間はたくさんある。

満員電車のなかでこけたとき、雨の日のコンビニで足を滑らせたとき、

したり顔を人に指摘されたとき、フランス語の授業で発音を何度も直されたとき、

上京して初めて標準語を口にしたとき、一人称を変えたことがバレたとき、

誰にも言っていないのに彼女ができたことをクラスの全員が知っていたとき、

間違えて小学校の担任の先生を「お母さん」と呼んでしまったとき、

――恥ずかしいことは思い出すだけで恥ずかしい。

 

本当に恥の多い生涯を送ってきたわけだが、

私が今まででいちばん多く感じたのは「しりとり」の恥ずかしさだ。

私は恥ずかしくて「しりとり」ができない。

正直、「しりとり」と発音することさえ少し恥ずかしい。

「しりとり」→「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→……

文脈から切り離された「ゴリラ」や「ラッパ」の音があまりにも幼稚に響いて、

それを発言している私自身をふわふわさせる。

私は今「ラッパ」の後に「パンダ」と言おうとしている。

「パ」のつく言葉といえば真っ先に「パンダ」を思い浮かべる私のことを、

周りはどういうふうに思うのだろうか。

「パスタ」のほうがいいだろうか。

いや、普段「スパゲティ」「マカロニ」で通してきた私が

「パスタ」なんてキザすぎて言えるはずがない。

「パントリー」なんておしゃれすぎて何のことかよく知らないし、

「パソコン」ではしりとりが終わってしまう。

パ、パ……、「パスポート」! これならちょうどいい!

――こんなことを考えて、すぐに言葉が出なくなる。

というより、頭にある言葉を口に出すのが恥ずかしくなる。

私が口に出していい言葉は、

私のキャラクターに合ったものだけであるような気がして、

言葉と自分の距離感を測ろうとして、混乱してしまう。

私は「パスタ」よりは「スパゲティ」「マカロニ」と言うキャラであり、

旅行は好きだから「パスポート」と口にしてもいいが、

家は狭いから「パントリー」と口にしないキャラである。

文脈を気にせずに「ラッパ」と言えるほど子供ではないが、

音楽はかじっていたから

トランペットやその他の金管楽器のことを

「ラッパ」と言うことはあるキャラである。

 

「役割語」というほどのものではないが、

それぞれの言葉はそれを口に出す人のイメージを伴っている。

そして、それぞれのイメージを持つ言葉を使ってきた末に

「私」というキャラクターは生まれた。

私のボキャブラリーは私のキャラクターそのものだといっても

過言ではないかもしれない。

だから言葉選びには気をつけてきた。

いや、というよりも、屈託してきたといったほうがいい。

最近、もう少し、言葉遣いに冒険があったほうがよかったかもしれない

と思うようになった。

せめて、しりとりがすぐ終わらない程度には。

それは、青臭い言い方をすれば、自分の殻を破ることになるのかもしれない。

 

  しりとりで「鱚」はずるいよ 明らかに僕に「鋤」って言わせる罠だ

瓜角

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