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スタッフblog「季の風」

   
 
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電車の中のアマノジャク
2019-02-21
 読書や勉強において、万人に通用するコツは存在しない――というのが、わたしの信条である。だから、「●●すると集中できる」などと簡単に言う人のことを、わたしはあまり信用していない。自分に合う方法は、自分で見つけなければならない。
 そういうわけで、自分が集中できる方法を求め、いまだに試行錯誤しているのだが、最近、電車の中は案外読書に向いているということに気づいた。
 全く新鮮味のない発見をしたとき、自らの凡庸さに呆れざるを得なかったのだが、実際うすうす気づいていたことでもあるので、ショックというほどではなかった。
 
 電車は地下鉄がよい。地上を走る電車は車窓の風景に見入ってしまうからよくない。快晴なら眠くなるし、雨なら降りてからのことを心配してしまう。地下鉄は窓を見ても、自分の間抜けな顔しか映らないから安心して目をそらすことができる。
 読書するなら、座席が空いていても座らないほうがよい。電車の揺れは最高に心地よい。座ると自動的に寝てしまう。少しだけ混んでいる電車で、できるだけ身を縮めて、右手は前にかけたリュックを抱きしめて、左手で文庫本を開くのだ。
 電車での読書に向いているのはちょっとだけ難しい本だ。混んでいる電車ではどうしても周りの人に気を使わないといけないし、揺れに対応しなければならないから体を完全にリラックスさせることはできない。物音もする。それがよい。難しい本を本当に集中して読むと絶望してしまうので、それくらい集中を欠くものがあったほうがわかった気分になれる。それに、岩波文庫なんかをこれ見よがしに(しかし、あくまでさりげなく見えるように)読んでいると、少し気分がよい。
 
「最近はみんな電車の中で、ケータイだのスマホだのを扱っていて、読書する人が少なくなった。嘆かわしい。」という内容の文章を読んだことがある。何年前だっただろうか。こんなことを言っているくらいだから、電子書籍がまだ普及する前なのだろうが、正確なことはもう忘れてしまった。少なくとも言えることは、電車は長きにわたり読書する場所だったということだ。
 生来のアマノジャクであるわたしは「嘆かわしい」などと言われると、意地でも電車で読書などするものかと思っていたのだが、なるほどやってみるとなかなかよい。長年大勢の人がしてきたことには、やはりそれなりの効果があるらしい。
 依怙地にならずに、素直にみんなの「おすすめ」に従っていれば、もう少しスマートに日々を過ごせそうなものだが、そんな純粋な自分を想像するだけで全身がかゆくなってしまう。――わたしが電子書籍を手にするまでには、もう少し時間がかかりそうだ。
 
  子曰はく、「ボーイズ、ビー・アンビシャス!」燃えないゴミを出し忘れた朝
瓜角
 
お年玉追想
2019-01-16
 私はこの歳にもかかわらず、今まで5人の子供たちにお年玉をあげてきた。この5人、親戚でもなんでもない、ただの近所の子だ。
 私の生まれ育った地域には、今なおかなり濃密な近所づきあいがある。だから、私は今でも実家に帰れば、隣の家に裏口から入って、何食わぬ顔で冷蔵庫を開けることができる。「できる」というか、だいたいいつもそんな感じだ。
 子供の頃には、当然隣のおじさん・おばさんから毎年お年玉をもらっていた。おじさん・おばさんの息子・娘からももらっていた。隣の家の親戚のおじさん・おばさんからもお年玉をもらっていた。正月に隣の家に行けば、かなりの金額が稼げたのだ!
 
 当時はしめしめと思っていたが、今では逆の現象が起こっている。隣の家の孫たちである!
 お年玉とは、大人にとってなんてシビアなシステムであることか……。
 いちばん苦しかったのは3年前。高校生が3人、中学生が1人、小学生が1人という状況だった。
「高校生に英世1人だけというのは、ケチすぎるよな……」
などと考えながら、何人の英世を旅立たせるか苦悩したものだ。
 
 田舎の人間関係というのは、都会で生まれ育った人には、濃すぎるかもしれない。距離も近いし、プライバシーという意識にも乏しい。何かあればすぐに隣近所に知れ渡ってしまう。基本的には古い考えがはびこっているし、一度人間関係がこじれると修復はかなり難しい。窮屈だと感じることも、ある。
 しかし、人間関係が「面倒くさい」分、私はたくさんの大人に愛されてきた。町じゅうの人にかわいがってもらった。土日も仕事で不在がちだった父よりも、隣のおじさん・おばさんから受けた影響のほうがはるかに大きい。
 
 都会で生まれ育った人と話していると、ときどき「上手に距離をとられている」と感じることがある。こちらは握手をしようと手を伸ばしているのに、相手は笑顔のまま決して手を握ってくれない――みたいな感覚だ。
 生き方上手、というと皮肉に思われるかもしれないが、実際彼らは上手だ。巧みに人間関係を「選んで」いる。自分のテリトリーを侵さない人を選んで、互いに傷つかないように付き合う。嫌な関係は「切る」。上手なのだが、田舎者の私には少し寂しい。私にとって、人間関係は「選ぶ」ものではなく、「巻き込まれる」ものだからだ。巻き込まれて、良いことも悪いことも共有させられ、そのうち「好きになるのも嫌いになるのももう遅い」みたいな関係が生まれる、それが人間関係だと思っている。
 上京して十数年、都会の人間関係に、私はまだ慣れていない気がする。
 
  角ばった餅しか売らない街に住み僕だけが正月を迎える
瓜角
 
お月さま
2018-12-20
 もうすっかり冬ですね。毎朝「今日をいかに暖かく過ごすか」ということだけを考えて服を選んでいます。それなのに、風邪をひいて2週間…全然治りません。早く治れ治れ。
 娘が11月で2歳になりました。2歳ともなると、できることが増えて、おしゃべりも増えて、いろんなことを伝えようとしてくれます。
 先日、保育園からの帰り道で自転車の後ろに乗った娘が
「うえーみてーおつきさま、いるねー」
と言いました。
「そうね―お月さまいるね。今日は三日月だから細いねー」
と答えたら、
「おつきさま、おおきいおせんべ、たべてるねー」
と言いました。私は「???」という反応しかできなかったのですが、もしかしたら娘にはお月さまが大きな口をあけておせんべいを食べてるように見えたのかもしれないと思って、ほっこりしました。
 娘を見ていると、子どもの発想力って本当に豊かだなと思います。きっと物語の中で生きているのでしょうね。私にもそういう時代があったはずなのに、うらやましいなと思いながら、娘の目に映る世界を共有させてもらっている日々です。
鳥馬
 
ジャイアントパンダは電気猫の夢を見るか?
2018-09-28
 人間は2つの動物に支配されている。猫様とジャイアントパンダ様である。
 猫様は今更説明するまでもないだろう。猫様は我々人間を直接使役なさっている。というより、使役していただいている。
 猫様は犬のように人間にしっぽを振ったり、人間の投げたボールを追いかけたりしない。ねこじゃらしは……勘違いしてはいけない。人間が猫様をじゃらしているのではなく、猫様が人間をじゃらしているのである。
 人間は猫様にないがしろにされればされるほど喜ぶように調教され、すっかり牙を抜かれてしまった。猫様に反抗しようものなら、たちまち猫パンチが飛んでくるのだ。無理もない。猫様にかなうわけがないのだ。
 ――嗚呼、私も猫様に睥睨されたい。
 
 ジャイアントパンダ様の支配は、暴力的で無自覚的な人たらしの才によるものである。ジャイアントパンダ様は基本的に竹を召し上がっているか、お休みになっているかどちらかである。そのお姿も人間が感興をもよおすに充分ではあるが、ときおり気まぐれにお歩きになっているところとか、何頭かでお戯れになっているところとか、そのようなお姿は人間を狂わせてやまない。
 ジャイアントパンダ様と人間では文字どおり、住む世界が違う。ガラスや柵で隔てられ、我々の愛は決して届かない。人間のなかには、人間がジャイアントパンダ様を檻に入れているのだと勘違いしている連中もいるが、逆である。檻に入っているのは我々のほうである。でなければ、人間がこんなに不自由であるはずがない。
 もしかしたら、ジャイアントパンダ様に人間を支配しているという自覚はないかもしれない。猫様が人間をこき使ってくださっているのに対し、ジャイアントパンダ様は人間をこき使うに値するものとして見ていないのだ。勝手に自分の世話を焼きたがる生き物くらいの認識だろう。
 ――嗚呼、私もジャイアントパンダ様に無視されたい。
 
 一見正反対の方法で人間を支配している猫様とジャイアントパンダ様だが、悠然とした生き方には共通するものがある。
「生き急ぐな。ゆっくり歩け」――猫様とジャイアントパンダ様は、人間に生きる極意を授けてくださっているのかもしれない。
 上野のシャンシャン様は1歳の誕生日を迎えられ、和歌山ではジャイアントパンダの姫君がお生まれになった。2頭の健やかなご成長は、みっともなくじたばた生きるしかない人間たちにとって目下最大の関心事で、今日も動物園では下卑た歓声が上がっている。
 猫様やジャイアントパンダ様の周辺でぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるしか能がない人間どもが、泰然自若として生きよという高尚なメッセージを受け取れるかどうか、甚だ疑問である。
 
  白黒をつけずに生きる今日も目を白黒させて苦笑いする
瓜角
 
文月
2018-07-10
 7月、陰暦でいえば文月(ふづき、ふみづき)である。
 文月の意味はいくつかあるらしいが、下記が定説となっているようだ。
 
文月の語源は、短冊に歌や字を書き、書道の上達の祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説が有力とされる。
(語源由来辞典(http://gogen-allguide.com/)より)
 
 短冊に願い事を書いて笹に吊るす風習は今もあるが、古来の七夕はもっと風流なものだったのだろう。それにしても、短冊を最後に書いたのはいつのことだろうか。
 昨今、文字を書く機会はどんどん減っていっている。受験勉強に追われていた高校生まではひたすら文字を書いていたが、大学に入るとパタと文字を書くことが減った。講義中に板書を写すこともあったが、それも1・2年生のころまでで、3年生になってからは図書館に通ってはパソコンでレジュメを作成していたと思う。この仕事だからこそ、文字を書くことはあるが、そうでなければあまり長文を書くことはない。
 先日、ファンレターを書こうと葉書を数枚買った。なぜ葉書にしたかといえば、忙しいであろう相手が目を通しやすいと思ったからだ。それと、手紙にしてしまうと、ついつい筆が滑って下手なことを書いてしまいそうだからである。買ってから、なぜ無地の葉書にしてしまったのかを悔いている。せめて罫が引いてある葉書にすればよかったが、もう遅い。達筆であったり絵がうまかったりすれば、さまになったであろう無地の葉書だが、私の力量では大変厳しい。どうにかごまかして書き上げたら、早々に投函してしまおう。何度も読み返していると不要な言葉を書き足しそうになる。応援している人間がいることが伝わればそれでいいのだ。
 文の月。改めて誰かに(ふみ)を書くのは気恥ずかしい。だが、今の季節だからこそ書けるものもある。暑中見舞いだ。暑中見舞いに擬態して、(ふみ)を書くのはどうだろう。久しく会っていない友人、あるいは恩師へ宛ててもいい。感銘を受けた、ただただ好きな誰かへのファンレターもいい。これだけ暑い夏だから、相手の身体を心配しているついでに書いた風を装って、言葉を送ろう。きっと、想像している以上の力を発揮するはずだ。
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