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スタッフblog「季の風」

   
 
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聴覚の影響
2019-09-05
 新たな職場では、一日中ラジオが流れている。実を言うと、このラジオが密かな仕事の楽しみになっている。そして思い出したのは、私がラジオをとても好きだったことだ。
 
 小学6年生の夏、初めて「自分の部屋」というものができた。当然、自由を得た私は勉強もせず延々TVゲームしていたわけだが、そのお供にしていたのがラジオだった。好きだった番組は数多くあったが、印象的だったのは劇作家を名乗る女性のラジオだった。あいにくインターネット環境もなかったので、その女性について調べることができず番組内で語られる内容しか知ることができなかった。よって「謎多き女性」というそのミステリアスな感じに()きつけられ、楽しみにしている番組のひとつとなった。番組は1年間の放送で終了してしまったので、非常に残念に思ったことを記憶している。そうしていつしか好きな番組がなくなってしまったことで、私はラジオから距離を置くようになった。
 
 そして時は()ち、大学では文学部に所属した私は、授業の課題や、趣味で小説を読むことが多くなった。教職を志していたため、読書量を増やさないと、と思っていたからである。そんな大学4年の冬、大きな文学賞発表のニュースを何気なく見ていたら、聞き覚えのある名前が聞こえた。あのラジオ番組の女性の名前である。衝撃だった。そして当時の思い出と、文学部なのに賞レース候補者すらチェックしていない自らの不肖さへの羞恥とが襲ってきた。そんな複雑な感情が一気にこみ上げてきたことにより、私は激しく狼狽(ろうばい)したのであった。
 
 それからというもの、私は真面目に近現代文学の勉強をするようになった。おそらく小説というものに向き合う必要があることを感じたのだと思う。今では知識も増え、いろんな読みの可能性を模索できるようになった。そんな成長のきっかけになったのは、大げさに言えば、ラジオの女性のおかげだったのかもしれない。
 
 そう考えれば、ラジオが私に与えた影響というのは、他のメディアよりも大きなものだったように思える。耳で得る情報というのは目で見るよりも、人の印象に残りやすいのかもしれない。
緑樹
 
紙の辞書を引く
2019-05-07
 この頃、仕事で漢字に関わることが多く、いつも漢和辞典を傍らに置きながら作業しています。高校のときにはもう、電子辞書にお世話になり始めていたし、最近はインターネットで調べれば大抵のことは分かるし、紙の辞書を使うのは、下手すると10年ぶりくらいかもしれません。
 
 紙の辞書といえば、私は小学生のころ、家においてあった国語辞典で遊ぶのが好きでした。国語辞典で調べたい語句を引き、その説明文に載っている単語を調べて、またその単語の説明に載っている単語を調べて……と続けていきます。自分の知っている言葉でも、辞書ではどうやって説明されているのだろう? と興味がわいて、いくらでも続けていられました。同じように、類義語が説明に載っていたら、その類義語を調べ、その類義語の説明に載っている類義語をまた調べて……と、類義語の類義語の類義語の……とやっていくと、最初に引いた言葉に戻ってくることもあって、それも面白くて辞書遊びを繰り返していました。
 
 調べたいことに関連したことをどんどん調べていく、というのは、今ならスマホでもできますが、ずっとスマホをいじっていると、なんだか無駄な時間を過ごしたような気分になります。やっていることは同じなのになぜなのか。辞典を引く面白さは、新しいことを知る、ということ以外に、辞典をパラパラめくって探していき、だんだん調べたい言葉に近づいていって、やっと見つける、という過程にあるのではないかと思います。スマホだと、調べたい答えがすぐに見つかって、その過程が楽しめません。紙をめくって探していく楽しさは、紙の辞書ならではだと思います。
 
 紙の辞書を久しぶりに使ってみて、その魅力を改めて思い出しました。
 
イヤホンのない朝
2019-04-25
新しい職場に来て、もうすぐ一か月が経つ。去年までは学校に勤務していたので、仕事内容がガラリと変わった。通勤方法も自転車から電車に変わり、毎朝満員電車の洗礼を受けている。電車を使うのは大学生以来だ。
 
学生時代、私の通学の必需品はイヤホンだった。電車の中で、音楽を聴いている時間が好きだった。たくさんの人に押しつぶされ、朝から気分の上がらない車内でも、好きな歌手の好きな曲を聴くとテンションが上がり、周囲の声や音を遮断して自分の世界に入り込んで、一日を始めることができた。
 
しかし、最近は音楽を聴かず外の景色を見ることが多くなった。イヤホンをつけなくなったのは、音楽アプリを開かずに、携帯の通信容量を節約したいという情けない理由だったが、慣れてしまえばイヤホンを持ち歩くこともなくなった。音楽の代わりに、楽しそうな高校生や大学生の話し声が聞こえたり、雨の日には車窓に当たる雨粒の音を聞いたり、私が思っていたよりも周りにはおもしろい音が溢れているんだなあとジワリと感じる。生活の音を聞きながら始まる朝も、なかなか悪くないと思うようになった。
 
学生時代は、少しでも時間があれば自分の好きなことやものに全てを注いでいたように思う。それしか目に入らない期間は、今の自分をつくるために必要な時間であったし、とても充実していた。しかし今は、少しずつ自分の周りのものに目を向けるようになった。学生時代は下を向いて携帯をさわる時間が多かったが、今は前を向いて、窓の外を眺める時間が増えた。
 
会社に向かう途中にある桜の花が、少しずつ散っていくのを毎日眺めながら、これが大人になるということなのかなあと思う。
梅福
 
電車の中のアマノジャク
2019-02-21
 読書や勉強において、万人に通用するコツは存在しない――というのが、わたしの信条である。だから、「●●すると集中できる」などと簡単に言う人のことを、わたしはあまり信用していない。自分に合う方法は、自分で見つけなければならない。
 そういうわけで、自分が集中できる方法を求め、いまだに試行錯誤しているのだが、最近、電車の中は案外読書に向いているということに気づいた。
 全く新鮮味のない発見をしたとき、自らの凡庸さに呆れざるを得なかったのだが、実際うすうす気づいていたことでもあるので、ショックというほどではなかった。
 
 電車は地下鉄がよい。地上を走る電車は車窓の風景に見入ってしまうからよくない。快晴なら眠くなるし、雨なら降りてからのことを心配してしまう。地下鉄は窓を見ても、自分の間抜けな顔しか映らないから安心して目をそらすことができる。
 読書するなら、座席が空いていても座らないほうがよい。電車の揺れは最高に心地よい。座ると自動的に寝てしまう。少しだけ混んでいる電車で、できるだけ身を縮めて、右手は前にかけたリュックを抱きしめて、左手で文庫本を開くのだ。
 電車での読書に向いているのはちょっとだけ難しい本だ。混んでいる電車ではどうしても周りの人に気を使わないといけないし、揺れに対応しなければならないから体を完全にリラックスさせることはできない。物音もする。それがよい。難しい本を本当に集中して読むと絶望してしまうので、それくらい集中を欠くものがあったほうがわかった気分になれる。それに、岩波文庫なんかをこれ見よがしに(しかし、あくまでさりげなく見えるように)読んでいると、少し気分がよい。
 
「最近はみんな電車の中で、ケータイだのスマホだのを扱っていて、読書する人が少なくなった。嘆かわしい。」という内容の文章を読んだことがある。何年前だっただろうか。こんなことを言っているくらいだから、電子書籍がまだ普及する前なのだろうが、正確なことはもう忘れてしまった。少なくとも言えることは、電車は長きにわたり読書する場所だったということだ。
 生来のアマノジャクであるわたしは「嘆かわしい」などと言われると、意地でも電車で読書などするものかと思っていたのだが、なるほどやってみるとなかなかよい。長年大勢の人がしてきたことには、やはりそれなりの効果があるらしい。
 依怙地にならずに、素直にみんなの「おすすめ」に従っていれば、もう少しスマートに日々を過ごせそうなものだが、そんな純粋な自分を想像するだけで全身がかゆくなってしまう。――わたしが電子書籍を手にするまでには、もう少し時間がかかりそうだ。
 
  子曰はく、「ボーイズ、ビー・アンビシャス!」燃えないゴミを出し忘れた朝
瓜角
 
お年玉追想
2019-01-16
 私はこの歳にもかかわらず、今まで5人の子供たちにお年玉をあげてきた。この5人、親戚でもなんでもない、ただの近所の子だ。
 私の生まれ育った地域には、今なおかなり濃密な近所づきあいがある。だから、私は今でも実家に帰れば、隣の家に裏口から入って、何食わぬ顔で冷蔵庫を開けることができる。「できる」というか、だいたいいつもそんな感じだ。
 子供の頃には、当然隣のおじさん・おばさんから毎年お年玉をもらっていた。おじさん・おばさんの息子・娘からももらっていた。隣の家の親戚のおじさん・おばさんからもお年玉をもらっていた。正月に隣の家に行けば、かなりの金額が稼げたのだ!
 
 当時はしめしめと思っていたが、今では逆の現象が起こっている。隣の家の孫たちである!
 お年玉とは、大人にとってなんてシビアなシステムであることか……。
 いちばん苦しかったのは3年前。高校生が3人、中学生が1人、小学生が1人という状況だった。
「高校生に英世1人だけというのは、ケチすぎるよな……」
などと考えながら、何人の英世を旅立たせるか苦悩したものだ。
 
 田舎の人間関係というのは、都会で生まれ育った人には、濃すぎるかもしれない。距離も近いし、プライバシーという意識にも乏しい。何かあればすぐに隣近所に知れ渡ってしまう。基本的には古い考えがはびこっているし、一度人間関係がこじれると修復はかなり難しい。窮屈だと感じることも、ある。
 しかし、人間関係が「面倒くさい」分、私はたくさんの大人に愛されてきた。町じゅうの人にかわいがってもらった。土日も仕事で不在がちだった父よりも、隣のおじさん・おばさんから受けた影響のほうがはるかに大きい。
 
 都会で生まれ育った人と話していると、ときどき「上手に距離をとられている」と感じることがある。こちらは握手をしようと手を伸ばしているのに、相手は笑顔のまま決して手を握ってくれない――みたいな感覚だ。
 生き方上手、というと皮肉に思われるかもしれないが、実際彼らは上手だ。巧みに人間関係を「選んで」いる。自分のテリトリーを侵さない人を選んで、互いに傷つかないように付き合う。嫌な関係は「切る」。上手なのだが、田舎者の私には少し寂しい。私にとって、人間関係は「選ぶ」ものではなく、「巻き込まれる」ものだからだ。巻き込まれて、良いことも悪いことも共有させられ、そのうち「好きになるのも嫌いになるのももう遅い」みたいな関係が生まれる、それが人間関係だと思っている。
 上京して十数年、都会の人間関係に、私はまだ慣れていない気がする。
 
  角ばった餅しか売らない街に住み僕だけが正月を迎える
瓜角
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